歴史認識について話し始めるとキリがないのだが、前回ブログを補足する意味で、最後に、根本的な問題として、「歴史」のもつ意味合いが欧米と東アジアとでは異なることについて触れたい。岡田英弘さんは「歴史」は「歴史認識」だと喝破される。
・・・(前略)・・・歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことである・・・(後略)・・・(『世界史の誕生』より)
すなわち歴史の本質は「認識」であって、それも個人の範囲を超えた「認識」であるということだ。
歴史を扱う場合、三つのレベルがあると私は思う。最下層にあるのは個々の「歴史的事実」や「事象」で、その上に「歴史認識」があり、最上層に「歴史観」がある。今の時代、ビッグデータと言って出来るだけ多くの「歴史的事実」を拾い上げたところで、仮に正確であっても恐らく分かり易い「歴史認識」にはならないだろう。むしろ重要度に応じて(場合によっては恣意的であっても)捨象してStoryを織り上げてこそ「歴史認識」となり、さらに特定の時代に囚われない大きな歴史の見方として一般化されれば、マルクス主義の唯物史観のような「歴史観」となる。幕末の薩長史観や、戦後のGHQ史観(あるいは東京裁判史観)もまた、それぞれ歴史の見方(いわば勝者の歴史)であって、特定の時代に限定されているため「歴史認識」のような装いがあるが、「歴史観」と言うべきものだろう。
欧米の歴史といえば、その嚆矢は言わずと知れたヘロドトスの『歴史』だ。ギリシア語の「ヒストリア」には、もともと「歴史」という意味はなく、形容詞の「ヒストール」は「知っている」、動詞の「ヒストレオー」は「調べて知る」、名詞の「ヒストリア」は「調べて分かったこと、調査研究」という意味らしい。この「ヒストリア」という言葉がヘロドトスの著書の題名に使われて「歴史」という意味になったという(岡田氏による)。先ほどの三層で言うと、「歴史的事実」を調べ上げ、実証的に「歴史認識」を織り上げて、『歴史』という著書になったわけだ。
他方、中国の歴史の嚆矢は言わずと知れた司馬遷の『史記』だ。中国にはもともと天下(=中国)に天命を受けた「天子」がいて、その天子だけが天下を統治する権利を持つ(その天子が中国式に「革命」(=命をあらためる)されると、新たな天命を受けた君主が正統な天子となる)という考え方がある。そのため『史記』は皇帝の正統の「歴史」を記述したものであって、つまり「歴史」(正確には正史)とは正統性を示すためのStoryということになる(岡田氏による)。先ほどの三段階に即して言うと、皇帝の正統の歴史という「歴史観」があって、「歴史認識」が織り上げられる。「歴史的事実」を下から積み上げた先にある現実の(実証的な)「歴史認識」とは全く逆向きの、理想的な(ある意味では捏造されたとでも言うべき)「歴史認識」が綴られる。
私の好きなエスニック・ジョークで、中国共産党の歴史教育はプロパガンダであり、韓国の歴史教育はファンタジーであると揶揄されるのは、歴史(歴史認識)そのものが欧米式の実証的なものではない所以であろう(笑)。ことほどさように国をまたがって「歴史」を語ることは容易ではない。
この季節、政治家の靖国神社参拝に対して中国と韓国が非難声明を出すのは恒例行事であるが(朝日新聞が1979年に打ち出したキャンペーン以来)、靖国神社の本質を理解せず、恐らく儒教的な発想で「墓」だと思っているからに他ならない。しかし、そもそも南方戦線で海に散り、大陸に朽ち果てた帝国軍人の方々の「骨」が靖国神社にあるわけではない。あるのは「精神」であって、それを鎮める発想は極めて日本的と言えよう。以下は、前回ブログに登場した方とは別の元・自衛隊幹部から寄せられた、終戦の日の思いである(一部、伏字とさせて頂く)。
・・・(前略)・・・●●さんは元・ゼロ戦パイロット(予科練)でした。四国沖の演習で、荒れる天候で大きく・ゆっくり揺れる瑞鶴の飛行甲板への着艦に失敗してひっくり返った時にできた眉間の傷等・・・(中略)・・・最期は台南空で終戦、捕虜となり送られたのはシンガポールのチャンギ―収容所(刑務所)でした。収容所といっても、通風のために天井にはスキマもあって、明日、処刑が決まったという隣の部屋の者から、「自分は、●●の出身なので、帰国したら、家族にこれを届けてもらいたい。」と言って、小石に包んだ手紙を天井の隙間超しに投げて寄こされた等々、不本意にも、今日と、そこに続く明日以降を生きたくても、生き続けることができなかった先代・先輩があったという事実と、それらの犠牲の上に、その末に、今の自分自身が生かされていることのありがたさを、素直に、率直に感謝の想いを以てご冥福を祈るのは当然の務めだと思います。終戦記念日から75年。私が産まれる15年前の、すぐ近くの出来事だったわけで、今のように、魔法のようなインターネット通信手段もなく、いつ、どこで命果てるかも知れない漠然とした虚空の下では、迷わずに確実に落ちあえて、会合できるような待ち合わせ場所を決めていたと思います。靖国神社とは、そのような素朴な想いが向かう先のひとつ(共通言語)だと思います。・・・(後略)・・・
私たちはGHQ史観に囚われの身のまま、戦後75年が過ぎた今もなお、私たち自身の手で先の戦争を総括できずにいる。恐らく日本人自身が総括しないことには、中国や韓国との間で歴史認識について議論することも、ひいては歴史(歴史認識)を通して中国や韓国とまともに向き合うことも出来ないだろうと思う。
最後に、そのような歴史観に囚われない人のモノの見方を振り返るのは悪いことではないだろう。
一人目は、私の好きなキューバ革命の英雄チェ・ゲバラで、1959年7月、国立銀行総裁として通商代表団を率いて来日した際、8月6日の原爆投下の日を前に、「他の日程をすべて犠牲にしても、原爆慰霊碑に献花したい」という強い要望があり、予定を変更して広島を訪問し、原爆被害の陳列品を見ていて、それまで無口だったゲバラが突然、通訳担当の広島県庁職員に、「君たち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされて、腹が立たないのか」と問いかけた。広島県庁職員は、「眼がじつに澄んでいる人だったことが印象的です。そのことをいわれたときも、ぎくっとしたことを覚えています」と回想している(三好徹著「チェ・ゲバラ伝 増補版」)。ゲバラが原爆の恐ろしさを伝えたため、キューバでは原爆教育に力を入れるようになり、現在でも毎年8月6日と9日に国営放送で特番を組み、初等教育では広島、長崎の原爆投下について教えているらしい。
二人目は、終戦を知らないままフィリピン・ルバング島の山中で29年間、戦争を続け、1974年に劇的な帰還を果たされた小野田寛郎さん(元・陸軍少尉)で、広島の原爆死没者慰霊碑を訪れて、「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」との碑文を読んで、困惑の色を顔に浮かべ、「これはアメリカが書いたものなのか?」と尋ねた。同行した戦友から、いや、日本だと言われると、「何か裏の意味があるのか? 負けるような戦争は二度としないような・・・」と言って、口を閉ざしてしまったのだった。
三人目は、東京裁判(極東軍事裁判)において被告人すべての無罪を主張し反対意見書を提出されたインド人のパール判事で、昭和27年に広島を訪れた際、碑文を見て「この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う」と語られた。通訳の旧友で本照寺の住職・筧義章氏が「檀徒の諸精霊のため『過ちは繰り返しませぬから』に代わる碑文を書いていただきたい」と懇願されたのに応えて、次のような詩をベンガル語で揮毫された。
激動し変転する歴史の流れの中に 道一筋につらなる幾多の人達が 万斛の思いを抱いて 死んでいった
しかし 大地深く打ちこまれた 悲願は消えない
抑圧されたアジアの解放のため その厳粛なる誓に いのち捧げた 魂の上に幸あれ
ああ 真理よ あなたは我が心の中に在る その啓示に従って我は進む
・・・(前略)・・・歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことである・・・(後略)・・・(『世界史の誕生』より)
すなわち歴史の本質は「認識」であって、それも個人の範囲を超えた「認識」であるということだ。
歴史を扱う場合、三つのレベルがあると私は思う。最下層にあるのは個々の「歴史的事実」や「事象」で、その上に「歴史認識」があり、最上層に「歴史観」がある。今の時代、ビッグデータと言って出来るだけ多くの「歴史的事実」を拾い上げたところで、仮に正確であっても恐らく分かり易い「歴史認識」にはならないだろう。むしろ重要度に応じて(場合によっては恣意的であっても)捨象してStoryを織り上げてこそ「歴史認識」となり、さらに特定の時代に囚われない大きな歴史の見方として一般化されれば、マルクス主義の唯物史観のような「歴史観」となる。幕末の薩長史観や、戦後のGHQ史観(あるいは東京裁判史観)もまた、それぞれ歴史の見方(いわば勝者の歴史)であって、特定の時代に限定されているため「歴史認識」のような装いがあるが、「歴史観」と言うべきものだろう。
欧米の歴史といえば、その嚆矢は言わずと知れたヘロドトスの『歴史』だ。ギリシア語の「ヒストリア」には、もともと「歴史」という意味はなく、形容詞の「ヒストール」は「知っている」、動詞の「ヒストレオー」は「調べて知る」、名詞の「ヒストリア」は「調べて分かったこと、調査研究」という意味らしい。この「ヒストリア」という言葉がヘロドトスの著書の題名に使われて「歴史」という意味になったという(岡田氏による)。先ほどの三層で言うと、「歴史的事実」を調べ上げ、実証的に「歴史認識」を織り上げて、『歴史』という著書になったわけだ。
他方、中国の歴史の嚆矢は言わずと知れた司馬遷の『史記』だ。中国にはもともと天下(=中国)に天命を受けた「天子」がいて、その天子だけが天下を統治する権利を持つ(その天子が中国式に「革命」(=命をあらためる)されると、新たな天命を受けた君主が正統な天子となる)という考え方がある。そのため『史記』は皇帝の正統の「歴史」を記述したものであって、つまり「歴史」(正確には正史)とは正統性を示すためのStoryということになる(岡田氏による)。先ほどの三段階に即して言うと、皇帝の正統の歴史という「歴史観」があって、「歴史認識」が織り上げられる。「歴史的事実」を下から積み上げた先にある現実の(実証的な)「歴史認識」とは全く逆向きの、理想的な(ある意味では捏造されたとでも言うべき)「歴史認識」が綴られる。
私の好きなエスニック・ジョークで、中国共産党の歴史教育はプロパガンダであり、韓国の歴史教育はファンタジーであると揶揄されるのは、歴史(歴史認識)そのものが欧米式の実証的なものではない所以であろう(笑)。ことほどさように国をまたがって「歴史」を語ることは容易ではない。
この季節、政治家の靖国神社参拝に対して中国と韓国が非難声明を出すのは恒例行事であるが(朝日新聞が1979年に打ち出したキャンペーン以来)、靖国神社の本質を理解せず、恐らく儒教的な発想で「墓」だと思っているからに他ならない。しかし、そもそも南方戦線で海に散り、大陸に朽ち果てた帝国軍人の方々の「骨」が靖国神社にあるわけではない。あるのは「精神」であって、それを鎮める発想は極めて日本的と言えよう。以下は、前回ブログに登場した方とは別の元・自衛隊幹部から寄せられた、終戦の日の思いである(一部、伏字とさせて頂く)。
・・・(前略)・・・●●さんは元・ゼロ戦パイロット(予科練)でした。四国沖の演習で、荒れる天候で大きく・ゆっくり揺れる瑞鶴の飛行甲板への着艦に失敗してひっくり返った時にできた眉間の傷等・・・(中略)・・・最期は台南空で終戦、捕虜となり送られたのはシンガポールのチャンギ―収容所(刑務所)でした。収容所といっても、通風のために天井にはスキマもあって、明日、処刑が決まったという隣の部屋の者から、「自分は、●●の出身なので、帰国したら、家族にこれを届けてもらいたい。」と言って、小石に包んだ手紙を天井の隙間超しに投げて寄こされた等々、不本意にも、今日と、そこに続く明日以降を生きたくても、生き続けることができなかった先代・先輩があったという事実と、それらの犠牲の上に、その末に、今の自分自身が生かされていることのありがたさを、素直に、率直に感謝の想いを以てご冥福を祈るのは当然の務めだと思います。終戦記念日から75年。私が産まれる15年前の、すぐ近くの出来事だったわけで、今のように、魔法のようなインターネット通信手段もなく、いつ、どこで命果てるかも知れない漠然とした虚空の下では、迷わずに確実に落ちあえて、会合できるような待ち合わせ場所を決めていたと思います。靖国神社とは、そのような素朴な想いが向かう先のひとつ(共通言語)だと思います。・・・(後略)・・・
私たちはGHQ史観に囚われの身のまま、戦後75年が過ぎた今もなお、私たち自身の手で先の戦争を総括できずにいる。恐らく日本人自身が総括しないことには、中国や韓国との間で歴史認識について議論することも、ひいては歴史(歴史認識)を通して中国や韓国とまともに向き合うことも出来ないだろうと思う。
最後に、そのような歴史観に囚われない人のモノの見方を振り返るのは悪いことではないだろう。
一人目は、私の好きなキューバ革命の英雄チェ・ゲバラで、1959年7月、国立銀行総裁として通商代表団を率いて来日した際、8月6日の原爆投下の日を前に、「他の日程をすべて犠牲にしても、原爆慰霊碑に献花したい」という強い要望があり、予定を変更して広島を訪問し、原爆被害の陳列品を見ていて、それまで無口だったゲバラが突然、通訳担当の広島県庁職員に、「君たち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされて、腹が立たないのか」と問いかけた。広島県庁職員は、「眼がじつに澄んでいる人だったことが印象的です。そのことをいわれたときも、ぎくっとしたことを覚えています」と回想している(三好徹著「チェ・ゲバラ伝 増補版」)。ゲバラが原爆の恐ろしさを伝えたため、キューバでは原爆教育に力を入れるようになり、現在でも毎年8月6日と9日に国営放送で特番を組み、初等教育では広島、長崎の原爆投下について教えているらしい。
二人目は、終戦を知らないままフィリピン・ルバング島の山中で29年間、戦争を続け、1974年に劇的な帰還を果たされた小野田寛郎さん(元・陸軍少尉)で、広島の原爆死没者慰霊碑を訪れて、「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」との碑文を読んで、困惑の色を顔に浮かべ、「これはアメリカが書いたものなのか?」と尋ねた。同行した戦友から、いや、日本だと言われると、「何か裏の意味があるのか? 負けるような戦争は二度としないような・・・」と言って、口を閉ざしてしまったのだった。
三人目は、東京裁判(極東軍事裁判)において被告人すべての無罪を主張し反対意見書を提出されたインド人のパール判事で、昭和27年に広島を訪れた際、碑文を見て「この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う」と語られた。通訳の旧友で本照寺の住職・筧義章氏が「檀徒の諸精霊のため『過ちは繰り返しませぬから』に代わる碑文を書いていただきたい」と懇願されたのに応えて、次のような詩をベンガル語で揮毫された。
激動し変転する歴史の流れの中に 道一筋につらなる幾多の人達が 万斛の思いを抱いて 死んでいった
しかし 大地深く打ちこまれた 悲願は消えない
抑圧されたアジアの解放のため その厳粛なる誓に いのち捧げた 魂の上に幸あれ
ああ 真理よ あなたは我が心の中に在る その啓示に従って我は進む