渡哲也さんが今月10日に肺炎のため亡くなっていたことが14日に判明した。享年78。
「静かに送ってほしいという故人の強い希望」(石原プロ)で、14日に家族葬がとり行われ、ようやく公になったということだ。その後10日近くが経つが、追悼の記事が絶えない。その中の一つで、あるスポーツ紙の女性記者が寄せたエピソードが印象に残る。「・・・記者にとってはスターのイメージしかなかった。石原プロモーションの新年会で、渡さんの姿を見つけた時は、なぜかなるべく遠くにいよう、という思いだった。石原プロの新年会は長丁場だ。いくつかの小グループに分かれて、あちこちで環ができるという時間帯になっていた。すると、記者がいるテーブルに、渡さんがひょいっとやって来たのだ。目の前に座った渡さんは、ほんの少しほおをピンク色にして上機嫌だった。緊張しっぱなしの記者を気づかってか、渡さんは『僕ね、渡哲也っていうんです。俳優をやってます。これでもけっこう有名なんです』・・・」。多くは寡黙でニヒルな役柄をこなし、石原裕次郎、小林旭に次ぐ、日活の、今となっては数少ない銀幕の、大スターでありながら、スターぶることなく、律儀で謙虚で、それでいて(伝えられるところによれば)お茶目な素顔が魅力的だ。
私は子供の頃に「太陽にほえろ!」は見ていたが「西部警察」は見なかった、というように、渡哲也さんが出演された映画やドラマの記憶は余りない。その映画出演は2005年、「男たちの大和/YAMATO」が遺作となり、ドラマ出演は2013年、実弟の渡瀬恒彦さん主演の人気シリーズ「西村京太郎サスペンス 十津川警部シリーズ50 消えたタンカー」で、兄弟共演で話題を呼んだのが最後で、絶えて久しいが、生前はそんなことさえ気づかないほど無関心だったのに、いざ亡くなったと聞くと、無性に寂しさが日に日にこみ上げてくる、そんな存在感のある役者さんだ。何にここまで惹かれるのか、追悼記事を読みながらつらつら考えてみた。
渡哲也さんの役柄として誰もが思い浮かべるのは、角刈りにグラサンで銃を構える刑事か、和装でどっしりと構えたヤクザの親分のイメージだろう(笑)。このあたりは世界のキタノ監督に語ってもらった方がよさそうだ(1999年11月16日、都内で行われた「BROTHER」制作発表会見)。「今回、日本(舞台)の部分で(ヤクザ組織の)親分というのが出てくるんですが、出てきた瞬間、『あっ、親分だ』という人はいないかなあと思って、渡さんを思いついて」と明かした後、「渡さんを正式に頼むとお金もかかるんで、裏からそっと、遊びにきませんかって。で、和服で遊びに来ませんかって。それで来たところを盗み撮りしちゃおうと。とにかく、頼み込んでワンシーン出てもらおうって。これから自分の映画に渡さんに関わってもらう、きっかけですね。とりあえず、今回はワンシーン出てもらいます」(スポーツ報知より)。実際に渡哲也さんが登場したのはワンシーンで、北野武さん演じる山本を米国に逃がすため、恥を忍んで日本に残り、組を守った故・大杉漣さん演じる原田が総会の席で対立する組長から侮辱され、突如、腹を切るシーンで、それまで温厚そのものの表情で場を眺めていた渡哲也さんが修羅場になったとたん、原田を侮辱した組長を「けじめ、つけろ!」と、迫力の声で一喝する(同)。その後、クライマックスシーンを撮影していたロスで、キタノ監督がふと呟いたそうだ。「参ったよ。渡さんはさ。そこにいるだけで親分なんだもん」(同)。
また、幅のある演技力を見せたとして評判だったのが、ジョージ秋山さんの人気コミックをドラマ化した「浮浪雲」の主人公役で、飄々とした軽みのある演技は、案外、渡哲也さんの地の部分が表れているのではないかと思うほど、よく似合う。「粋でいなせな大泥棒」とは、かつてコミック版「ルパン三世」の帯に書かれたキャッチフレーズで、見た目の行動こそ「ルパン三世」とは大違いでも、「粋」で「いなせ」な気性は、渡哲也さんの役柄によく似合う。
こうして、ファンのため、役者としてのイメージを大切にする姿勢を貫いたという声がある。確かに、ファンへの感謝を忘れず、という文脈で、渡哲也さんの地元・淡路島も被災した阪神淡路大震災にはじまり、東日本大震災や熊本地震など、被災地で炊き出しを行うボランティア活動にも積極的に取り組む姿がニュースで流れた。毎日新聞によると、小児がん征圧キャンペーン「生きる」に全面協力されていたという。これらは恐らく、自らも何度も大病を患い、闘病生活が長かった故の、弱い立場の人への共感であり優しさだったのだろう。他方で、人前では自らの弱った姿の素振りさえ見せなかった。最後も一人で、家族に看取られて、逝った。裏があったとは思わない。もっと言うと、渡哲也さんが男として男に惚れたと言われる故・石原裕次郎さんの後を継いで引っ張って来た石原プロモーションは、石原軍団とも言われ、鉄壁の団結を誇り、規律ある集団として異彩を放っており、私には任侠の世界そのものに映る。
そもそも任侠とは、「仁義を重んじ、困っていたり苦しんでいたりする人を見ると放っておけず、彼らを助けるために体を張る自己犠牲的精神や人の性質を指す語」(Wikipedia)であり、本来は誉め言葉のはずだが、「(広大な面積と複数の言語や民族が存在するので、地方においては法の権威が及ばない中国と違って)日本では江戸時代以降、近代および現代を通して政治が安定して法治主義が隅々まで行き届いており、反乱などもほとんど長続きしないという状態であったため、任侠の精神は社会の最下層の人間や非合法の輩の間でしか存在できないという状態が存在し」(同)、現代の私たちはついヤクザや暴力団を連想して、遠ざけがちだ。しかし、杉浦重剛は「日本人は生まれながらに大和魂を持つが、その魂が武士に顕れれば武士道、町人に顕れれば侠客道」だと述べ、新渡戸稲造は『武士道』の中で、「武士道精神は男達(おとこだて)として知られる特定の階級に継承されている」と述べた(同)というし、かつて日活や東映などのヤクザ映画はこうした任侠道を愛しんだものであろう。渡哲也さんの追悼記事では、遠慮されているのだろうか、任侠の言葉は出てこないので、私は敢えて、渡哲也さんが示されたのは任侠的な生き様であり、ボランティア活動にしても、石原プロにしても、はたまた、渡哲也さん自身が石原裕次郎さんから感銘を受け、その後、多くの芸能人や芸能記者が渡哲也さんから感銘を受けたという、後輩に対しても丁寧に立ち上がって握手し挨拶する所作も、渡哲也さんなりの美学を貫いたのだと言いたい。「徹子の部屋」に出演したときの、スーツ姿で背筋をピンと伸ばして微笑む様子は、凛として美しいと思うほどだ。私の中の喪失感の正体は、どうやら失われつつある任侠道を、渡哲也さんが体現する存在だと私が感じていたことにありそうだ。
最近では、渡哲也さんは、宝酒造の松竹梅のテレビCMがお馴染みだ。2016年に続き、2017年にも吉永小百合さんと共演し、取材に応じたときには、「こんにちは! お忙しい中、ありがとうございます」と大きな声で記者を迎え入れ、銀幕復帰への思いとともに、「元気になったら最後の一本は吉永さんとご一緒したいなと思います。大ラブシーンがあるのを。20代の時ももちろんステキでしたけど、年を追うごとにステキになっているから」と語ると、小百合さんは少女のような表情になり、「渡さんは初共演の頃からシャイでチャーミングなんですよ・・・。完全復帰なさって大人の恋の物語をやりましょう」と誓い合ったという(スポーツ報知)。若かりし頃の吉永小百合さんとの悲恋を思えば、人生の妙を感じざるを得ない。その後も2018・2019年とCM撮影は行われたが、取材陣は入らなかったので、2017年9月が公の場として最後となった。そして今年は、故・石原裕次郎さんの生前の映像との合成による共演で、7月29日から放送されているそうだ。撮影がいつだったかは明らかではない。6月、その宝酒造のCM「よろこびをお伝えして50年~幻の共演~」のナレーション録りを自宅で行ったのが人生最後の仕事で、7月27日に完成作を見た際には何度も頷き、書面で「最後のコマーシャルを裕次郎さんとの共演で終わらせていただきますのは感慨深いものがあります」とコメントを寄せたという(デイリースポーツ)。
今年7月には、来年1月を以て石原プロを解散することが発表された。石原裕次郎さんの「私が死んだら石原プロをたたみなさい」という遺言に遅まきながら従ったもので、自らの引き際を悟っていたかのようだ。実際、事務所幹部によると、渡哲也さんは心なしかホッとした様子で、「若い人たちが出てきて、一歩下がって生きていくのが時代の流れだろう」と話していたという(デイリースポーツ)。石原プロを最後まで見届けることが出来なかったのは心残りだろうが、「男気」とか「男伊達」などと言うことすら憚れるような現代にあって、任侠的な生き様は、映像とともに、私たちの心に永遠に残り続けることだろう。感謝の気持ちを込めて、合掌。
「静かに送ってほしいという故人の強い希望」(石原プロ)で、14日に家族葬がとり行われ、ようやく公になったということだ。その後10日近くが経つが、追悼の記事が絶えない。その中の一つで、あるスポーツ紙の女性記者が寄せたエピソードが印象に残る。「・・・記者にとってはスターのイメージしかなかった。石原プロモーションの新年会で、渡さんの姿を見つけた時は、なぜかなるべく遠くにいよう、という思いだった。石原プロの新年会は長丁場だ。いくつかの小グループに分かれて、あちこちで環ができるという時間帯になっていた。すると、記者がいるテーブルに、渡さんがひょいっとやって来たのだ。目の前に座った渡さんは、ほんの少しほおをピンク色にして上機嫌だった。緊張しっぱなしの記者を気づかってか、渡さんは『僕ね、渡哲也っていうんです。俳優をやってます。これでもけっこう有名なんです』・・・」。多くは寡黙でニヒルな役柄をこなし、石原裕次郎、小林旭に次ぐ、日活の、今となっては数少ない銀幕の、大スターでありながら、スターぶることなく、律儀で謙虚で、それでいて(伝えられるところによれば)お茶目な素顔が魅力的だ。
私は子供の頃に「太陽にほえろ!」は見ていたが「西部警察」は見なかった、というように、渡哲也さんが出演された映画やドラマの記憶は余りない。その映画出演は2005年、「男たちの大和/YAMATO」が遺作となり、ドラマ出演は2013年、実弟の渡瀬恒彦さん主演の人気シリーズ「西村京太郎サスペンス 十津川警部シリーズ50 消えたタンカー」で、兄弟共演で話題を呼んだのが最後で、絶えて久しいが、生前はそんなことさえ気づかないほど無関心だったのに、いざ亡くなったと聞くと、無性に寂しさが日に日にこみ上げてくる、そんな存在感のある役者さんだ。何にここまで惹かれるのか、追悼記事を読みながらつらつら考えてみた。
渡哲也さんの役柄として誰もが思い浮かべるのは、角刈りにグラサンで銃を構える刑事か、和装でどっしりと構えたヤクザの親分のイメージだろう(笑)。このあたりは世界のキタノ監督に語ってもらった方がよさそうだ(1999年11月16日、都内で行われた「BROTHER」制作発表会見)。「今回、日本(舞台)の部分で(ヤクザ組織の)親分というのが出てくるんですが、出てきた瞬間、『あっ、親分だ』という人はいないかなあと思って、渡さんを思いついて」と明かした後、「渡さんを正式に頼むとお金もかかるんで、裏からそっと、遊びにきませんかって。で、和服で遊びに来ませんかって。それで来たところを盗み撮りしちゃおうと。とにかく、頼み込んでワンシーン出てもらおうって。これから自分の映画に渡さんに関わってもらう、きっかけですね。とりあえず、今回はワンシーン出てもらいます」(スポーツ報知より)。実際に渡哲也さんが登場したのはワンシーンで、北野武さん演じる山本を米国に逃がすため、恥を忍んで日本に残り、組を守った故・大杉漣さん演じる原田が総会の席で対立する組長から侮辱され、突如、腹を切るシーンで、それまで温厚そのものの表情で場を眺めていた渡哲也さんが修羅場になったとたん、原田を侮辱した組長を「けじめ、つけろ!」と、迫力の声で一喝する(同)。その後、クライマックスシーンを撮影していたロスで、キタノ監督がふと呟いたそうだ。「参ったよ。渡さんはさ。そこにいるだけで親分なんだもん」(同)。
また、幅のある演技力を見せたとして評判だったのが、ジョージ秋山さんの人気コミックをドラマ化した「浮浪雲」の主人公役で、飄々とした軽みのある演技は、案外、渡哲也さんの地の部分が表れているのではないかと思うほど、よく似合う。「粋でいなせな大泥棒」とは、かつてコミック版「ルパン三世」の帯に書かれたキャッチフレーズで、見た目の行動こそ「ルパン三世」とは大違いでも、「粋」で「いなせ」な気性は、渡哲也さんの役柄によく似合う。
こうして、ファンのため、役者としてのイメージを大切にする姿勢を貫いたという声がある。確かに、ファンへの感謝を忘れず、という文脈で、渡哲也さんの地元・淡路島も被災した阪神淡路大震災にはじまり、東日本大震災や熊本地震など、被災地で炊き出しを行うボランティア活動にも積極的に取り組む姿がニュースで流れた。毎日新聞によると、小児がん征圧キャンペーン「生きる」に全面協力されていたという。これらは恐らく、自らも何度も大病を患い、闘病生活が長かった故の、弱い立場の人への共感であり優しさだったのだろう。他方で、人前では自らの弱った姿の素振りさえ見せなかった。最後も一人で、家族に看取られて、逝った。裏があったとは思わない。もっと言うと、渡哲也さんが男として男に惚れたと言われる故・石原裕次郎さんの後を継いで引っ張って来た石原プロモーションは、石原軍団とも言われ、鉄壁の団結を誇り、規律ある集団として異彩を放っており、私には任侠の世界そのものに映る。
そもそも任侠とは、「仁義を重んじ、困っていたり苦しんでいたりする人を見ると放っておけず、彼らを助けるために体を張る自己犠牲的精神や人の性質を指す語」(Wikipedia)であり、本来は誉め言葉のはずだが、「(広大な面積と複数の言語や民族が存在するので、地方においては法の権威が及ばない中国と違って)日本では江戸時代以降、近代および現代を通して政治が安定して法治主義が隅々まで行き届いており、反乱などもほとんど長続きしないという状態であったため、任侠の精神は社会の最下層の人間や非合法の輩の間でしか存在できないという状態が存在し」(同)、現代の私たちはついヤクザや暴力団を連想して、遠ざけがちだ。しかし、杉浦重剛は「日本人は生まれながらに大和魂を持つが、その魂が武士に顕れれば武士道、町人に顕れれば侠客道」だと述べ、新渡戸稲造は『武士道』の中で、「武士道精神は男達(おとこだて)として知られる特定の階級に継承されている」と述べた(同)というし、かつて日活や東映などのヤクザ映画はこうした任侠道を愛しんだものであろう。渡哲也さんの追悼記事では、遠慮されているのだろうか、任侠の言葉は出てこないので、私は敢えて、渡哲也さんが示されたのは任侠的な生き様であり、ボランティア活動にしても、石原プロにしても、はたまた、渡哲也さん自身が石原裕次郎さんから感銘を受け、その後、多くの芸能人や芸能記者が渡哲也さんから感銘を受けたという、後輩に対しても丁寧に立ち上がって握手し挨拶する所作も、渡哲也さんなりの美学を貫いたのだと言いたい。「徹子の部屋」に出演したときの、スーツ姿で背筋をピンと伸ばして微笑む様子は、凛として美しいと思うほどだ。私の中の喪失感の正体は、どうやら失われつつある任侠道を、渡哲也さんが体現する存在だと私が感じていたことにありそうだ。
最近では、渡哲也さんは、宝酒造の松竹梅のテレビCMがお馴染みだ。2016年に続き、2017年にも吉永小百合さんと共演し、取材に応じたときには、「こんにちは! お忙しい中、ありがとうございます」と大きな声で記者を迎え入れ、銀幕復帰への思いとともに、「元気になったら最後の一本は吉永さんとご一緒したいなと思います。大ラブシーンがあるのを。20代の時ももちろんステキでしたけど、年を追うごとにステキになっているから」と語ると、小百合さんは少女のような表情になり、「渡さんは初共演の頃からシャイでチャーミングなんですよ・・・。完全復帰なさって大人の恋の物語をやりましょう」と誓い合ったという(スポーツ報知)。若かりし頃の吉永小百合さんとの悲恋を思えば、人生の妙を感じざるを得ない。その後も2018・2019年とCM撮影は行われたが、取材陣は入らなかったので、2017年9月が公の場として最後となった。そして今年は、故・石原裕次郎さんの生前の映像との合成による共演で、7月29日から放送されているそうだ。撮影がいつだったかは明らかではない。6月、その宝酒造のCM「よろこびをお伝えして50年~幻の共演~」のナレーション録りを自宅で行ったのが人生最後の仕事で、7月27日に完成作を見た際には何度も頷き、書面で「最後のコマーシャルを裕次郎さんとの共演で終わらせていただきますのは感慨深いものがあります」とコメントを寄せたという(デイリースポーツ)。
今年7月には、来年1月を以て石原プロを解散することが発表された。石原裕次郎さんの「私が死んだら石原プロをたたみなさい」という遺言に遅まきながら従ったもので、自らの引き際を悟っていたかのようだ。実際、事務所幹部によると、渡哲也さんは心なしかホッとした様子で、「若い人たちが出てきて、一歩下がって生きていくのが時代の流れだろう」と話していたという(デイリースポーツ)。石原プロを最後まで見届けることが出来なかったのは心残りだろうが、「男気」とか「男伊達」などと言うことすら憚れるような現代にあって、任侠的な生き様は、映像とともに、私たちの心に永遠に残り続けることだろう。感謝の気持ちを込めて、合掌。