連休前のことになるが、新選組局長・近藤勇(1834~68年)が着用した可能性のある甲冑が、富山県高岡市の古刹・国泰寺で見つかった。注目すべきは、寄進したのが幕臣・山岡鉄舟(1836~88年)だったことで、高岡という地との取り合わせが気になった。鎌倉時代の創建とされる国泰寺は、なんと京都の妙心寺や天龍寺などと同格の禅寺なのだそうで、江戸時代には歴代将軍の位牌が安置されるほどの徳川家ゆかりの寺だそうだ。明治天皇の北陸への巡幸に随行した鉄舟は、廃仏毀釈の影響で荒れ果てた国泰寺を見かねて、1万枚以上の書を揮毫して資金を集め、再興を支援したという。彼は、新選組の前身「浪士組」設立に関わったことでも知られる。彼は幸いにも維新政府でも取り立てられたが、薩長史観によれば近藤勇は逆賊だから、頃合いを見計らって、地方(高岡)の由緒ある寺でひっそりと弔ったのではないか・・・というわけだ。
平穏無事のときには、とりたてて何かするでもなく時は流れる。しかし、歴史の動乱期には人物が炙り出される。困難を乗り切るために、時代が人物を欲するのだ(逆に言うと、人物は、平穏無事の時代には目立たないまま一生を終えるのかも知れない)。その意味で、戦国時代と幕末は、日本における二大動乱期として、それらの時代の歴史小説がことのほか日本人には好まれる。私も、かつては生まれ故郷の英雄・西郷隆盛を慕い、その後、司馬遼太郎の影響で坂本龍馬や新撰組の若者たちの清々しさに感銘を受けたが、最近のマイ・ブームは「幕末三舟」の一人、山岡鉄舟だったのだ。あの坂本龍馬をして、「西郷という奴はわからぬ奴だ。小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし、馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」と言わしめた西郷隆盛をして山岡鉄舟のことを、「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と言わしめた。これを聞くだけで私は心の臓をぐっと掴まれた気分になる(笑)。
ここで言う天下の偉業とは、江戸無血開城のことだろう。一般には、西郷隆盛が旧・薩摩藩邸(今の港区芝5丁目)で勝海舟と直談判したことが知られ、その会見の記念碑が残るが、実のところ、西郷隆盛は、勝海舟と会う前に山岡鉄舟との談判で殆ど腹を決めていたとされる。その会見の記念碑が静岡駅前、上伝馬町の松崎屋源兵衛宅跡に残る。
以下、Wikipediaから抜粋する。「慶喜は恭順の意を征討大総督府へ伝えるため、高橋精三(泥舟)を使者にしようとしたが、彼は慶喜警護から離れることが出来ない、と述べ義弟である鉄舟を推薦」した。「山岡は西郷を知らなかったこともあり、まず陸軍総裁勝海舟の邸を訪問」し、「勝は山岡とは初対面だったが、山岡の人物を認め」、「西郷隆盛宛の書を授ける」。山岡は、「駿府の大総督府へ急行し」、大胆にも「官軍が警備する中を『朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る』と大音声で堂々と歩行し」、「下参謀西郷隆盛の宿泊する旅館に乗り込み、西郷との面談を求め」、「西郷は山岡の真摯な態度に感じ入り、交渉に応じ」て、「江戸城開城の基本条件について合意を取り付けることに成功した」のであった。
中でも、西郷隆盛から提示された5条件の内の一つ、「将軍慶喜を備前藩に預けること」に抵抗し、「もし島津侯が(慶喜と)同じ立場であったなら、この条件を受け入れないはず」だと反論し、慶喜の身の安全を保証させた。そのため、後に慶喜は「『(慶喜の救済、徳川家の家名存続、江戸無血開城)官軍に対し第一番に行ったのはそなただ。一番槍は鉄舟である。』と、慶喜自ら『来国俊』の短刀を鉄舟に与えた」そうだし、徳川家達は「明治15年(1882年)に徳川家存続は山岡鉄舟のお陰として、徳川家家宝である『武藤正宗』の名刀を鉄舟に与えた」そうだ。因みに、「勝海舟は名刀を与えられていない」(いずれもWikipediaより)。
この連休中に、『命もいらず名もいらず』(山本兼一著、集英社)を読んだ。小説とは言え、若かりし頃の山岡鉄舟の剛直な性格とひたむきさがなんとも微笑ましく、羨ましくもある。「最後のサムライ」と言えば、今なら河合継之助だろうし、西南戦役の史実を振返って西郷隆盛と主張する人もいるだろうが、剣、禅、書のいずれをもよくし(母方の先祖に塚原卜伝がいる)、身長六尺二寸(188センチ)、体重二十八貫(105キロ)と、当時としては並外れた巨漢で、北辰一刀流の剣術を学び、一刀流小野宗家第9代・小野業雄から道統を受け、自ら一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖となり、ソロバン勘定は苦手ながら、高潔な人格で知られ、明治天皇の侍従として教育係を仰せつかるなど、明治新政府でも重用された山岡鉄舟もまた、古き良きサムライの精髄を体現し、「最後のサムライ」に相応しいように思う。
この小説を読んで、当時の世相に思いを致さないわけには行かなかった。一部のサムライとは言え、自己鍛錬の厳しさと憂国の志の真摯さを見せつけられると、当時、帝国主義が荒れ狂った激動の時代を、アジア諸国の中で唯一、日本が乗り切った理由が分からないではない。逆に、今の私たちにそこまでの真摯さがあるかと問われると、なんだか堕落したように思えて恥ずかしくなる。当時の日本は、人の一生に譬えればまだ青年のように若々しく、世間知らずで、何事にもひたむきで、溢れるばかりの鋭敏な感覚を持っていた。翻って現代の私たちはどうだろう。バブル期にはアメリカを脅かすほどの経済的成功をおさめたが、安全保障は他国(アメリカ)に委ねたまま、ちょうど(第一次と第二次の)戦間期のように、一等国の幻想から抜け切らず、慢心して、ウクライナ危機に直面しても、ドイツに啓発されたのだろう自民党は、防衛予算を対GDP比で2%に引き上げることを提案するまでは良かったが、5年もかかるという緊迫感のなさはちょっと絶望的だ。野党に至っては、護憲(とりわけ憲法9条の死守)の前提として、日本の周辺にたむろするゴロツキのような権威主義国に脅威を感じるのではなく、今なお日本自身の暴走こそが脅威と見做し、その歯止めとする発想が横溢しているのは、もはや救いようのない現実感覚のなさと言うべきであり、自ら政権を担う気がないのだと諦めざるを得ない。
いざとなったら、政治家はアテにならなくても、私たち庶民は団結するのだろうと信じたい(し、中国は今なおそれを恐れているように見える)。そのために、幕末・維新の志士の緊張感を訪ねるのも悪くないはずだ。