新年も既に一ヶ月が過ぎたというのに、昨年を回顧するのもなんだが、今に繋がる話として、今回までは続けたい(ダボス会議でのキーワードになったようだが、それ以前にタイトルを決めていた・・・とは言い訳がましいが、もはや陳腐かも 苦笑)。
かつて小説家の有吉佐和子さんが公害問題を取り上げた『複合汚染』(1975年)がベストセラーになった。宮崎義一氏は『複合不況』(1992年)で、80年代半ば以降のバブル発生と崩壊のメカニズムを実証的に分析され、金融自由化の帰結として生じた金融部門の経営悪化にリードされて引き起こされた新しい不況であると論じられた。今は、「複合」危機とでも言えるような危機的な状況にあると言えるように思う。それを実感したのが2022年という年だった。
トランプ政権において表面化した米中対立が深刻化する中で、世界は新型コロナ禍に見舞われていた。2022年はその3年目だが、当初、中国に生産を依存していたマスクや医療器具が入手困難になり、サプライチェーンの強靭化が叫ばれるようになり、経済安全保障への関心が高まっていたところだった。民主主義国と権威主義国の分断が深まったそのとき、主要国が財政を大きく毀損して、国家も国民も疲弊し、ヨーロッパ諸国は自らの資源に依存すると足下を見たロシアのプーチンは、バイデン大統領がアフガニスタンから撤退した半年後に、ウクライナに対して19世紀的な戦争を仕掛け(因みに2013年にオバマ大統領がアメリカは世界の警察官ではないと言い放った半年後に、プーチンはクリミアを併合した)、世界をエネルギー危機と食糧危機に晒した。その後、インフレが加速し、米国をはじめとする金融引き締めがドル高を招いて、その影響で貧しい国々が窮状に追い込まれている。
これだけの危機に見舞われて、世界はよく持ち堪えているものだと思う。いや気息奄々なのかも知れない。日本でも物価がじりじり上がり、円安のせいで遅れて輸入物価も上がっている。
こうして思うのは、「権力」なるものの魔力だ。イアン・ブレマー氏が率いるユーラシア・グループが発表した今年の十大リスクでは、「ならず者国家ロシア」が筆頭に、また、「最大化する習権力」が二番手に挙げられた。
民主的平和論などと言われるのは、民主主義国では、多かれ少なかれ自由な言論が担保されたメディアと国民によって政府の暴走が止められると期待されるからだ。実際に、やりたい放題のアメリカでも、第二次大戦に参戦するときと同様、日米安保条約第5条があっても、国会の承認がなければ行動を起こせない。
他方、中国では軍民融合などと言われるが、中国はいつも二番煎じで、冷戦後のアメリカの軍民統合に倣っただけのことではある(だから中国は、自分は悪くないと開き直る)。確かにアメリカでは当時、防衛予算を減らされる中で止むにやまれずスピンオン(民生技術の軍事転用)が進められ、更には1993年頃から戦略的にデュアルユース技術の開発が進められた。では、二番煎じの中国の何が問題か?・・・国家意思だと思う。現象として表れているのが2017年に施行された中国の「国家情報法」で、その第7条には「国民と組織は、法に基づいて国の情報活動に協力し、国の情報活動の秘密を守らなければならず・・・」とある。海外にいる留学生であろうが企業の駐在員であろうが、中国籍を捨てない限りスパイであることを求められる。これがあるから、華為は、今はもしかしたらあらぬ容疑でアメリカから締め出されつつあるかも知れないが、中国政府、いや端的に中国という国家を牛耳る中国共産党の指示によって、いつ豹変するか分かったものではない。TikTokにも同様のリスクがある。その根底には、アメリカの中国共産党に対する拭い切れない不信感があると思う。しかも中国は、人口減少が報じられたように(実際には数年前からとも言われるが、その真偽はさておき)、また政府の債務が異常に膨れ上がり、GDPの2割を占めると言われる不動産業もバブル崩壊寸前と言われるように、報道の自由がないから実体はよく分からないが、これまでのような成長は限界にぶち当たっており、中国共産党の統治の正当性に疑問符がつく。
ロシアもまたプーチンとその一派というマフィアが牛耳る国家で、国際社会を大混乱に陥れてでも、自らの威信を守ることに執着している。
そして、南北戦争以来とも言われるアメリカの社会的な分断によって、混乱が増幅しているところがある。
こうして、そもそも世界の分断から起こった危機であるために、世界は結束できないでいる。今や、自由・民主主義の世界と、権威主義の世界(中国、ロシア、イラン、北朝鮮など)と、そのいずれからも距離を置き、双方から利益を引き出そうとする、その他大勢の第三の世界に分かれつつあることは、一般に認められるところだろう。ロシアの行動を非難する国連総会の決議でも、中国の人権状況を非難する国連・人権理事会の決議でも、そのような色分けがなされたのは記憶に新しい。中国やロシアは第二の世界にいて、限りなく第三の世界に近づき、彼らを取り込もうとしている。インドは第一の世界に良い顔をしながら、あくまで第三の世界の盟主たらんと、そして第一・第二の双方から利益を得ようとする。トルコも第一の世界と見せかけながら、第二の世界に近づいている。
世界を危機から救うことが期待される国連は、そのいずれの世界からも一定の権威を認められているところは救われるのだが、第三の世界にとっては、存在感を示し得る唯一の組織体として、利益を得られるものとして期待される一方、第二の世界からは最大限利用される存在に堕し、第一の世界からは、ロシアの侵略を止められなかった安保理をはじめ、限界が指摘されて改革が求められる始末である。国連は、日本人が思うような平和の象徴でも美しいものでもなく、そもそも設立の当初から、世界の権力政治が蠢くアヤシイ世界であって、今に始まったものではない。
こうした危機的な状況の中で、植民地支配の歴史から比較的浅い傷を負っただけの日本の立ち位置は、第一の世界の中では第三の世界との賛同を得やすく、第二の世界ともそれなりに付き合って来たので、単独では難しいにしても、ミドルパワーの国家を結集して事態を動かし得るという意味で、むしろこれまでよりも行動が期待されているのではないかという気がしている。岸田政権にそれが出来るのかと言われると、甚だ心許ないのだが・・
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