漢字では「木槿」と書く。中国が原産の、落葉広葉樹の低木で、観賞用に栽培され、日本では既に平安時代初期には植えられていたそうだ。Wikipediaによれば、花持ちが悪いため花展には向かず、あまり一般的な花材ではないが、毎日生け替えて使うことで風情が出る、とある。さらに茶道では、茶人・千宗旦(利休の孫)が好んだこともあり、花のはかなさが一期一会の茶道の精神にも合致するとされ、現代ではもっとも代表的な夏の茶花となっている、とある。韓国では国花になるほど人々に馴染みのようだ。
添付は、会社の敷地内に可憐な花を咲かせていたのが目に留まり、写真に収めたものだが、期せずして、故・山本兼一さんの『利休にたずねよ』を読んでいると、象徴的に(たとえば高麗茶碗とともに)「木槿」が配されているのを、感慨深く思った。
山本兼一さんと言えば、以前、このブログで、山岡鉄舟の生涯を描いた『命もいらず名もいらず』を取り上げた。その後、『オリビアを聴きながら』風に言えば、「私らしく一日を終えたい夜」に寝入る前15分の読書の友として(笑)、『火天の城』に惹き込まれた。続いて、遅まきながら読んだ『利休にたずねよ』の何が凄いって、巻末の浅田次郎さんとの対談の中で、利休はこれまでいくつもの作品が出ていて書き尽くされている感があるし、茶の湯を通じてカリスマ的な存在としてキャラクターのイメージが固定されているので、小説にするのは難しいし度胸がいると言われたのに対し、山本さんは、利休について書けると感じたのは、博物館で利休の真塗りの真っ黒な水指を見たときだと答えておられることだ。すごく柔らかくて、艶っぽく感じたんです、と。侘び・寂びの世界に「艶っぽさ」を見て取るのは主観の問題だが、その感性が素晴らしい。かつて、マレーシア駐在時に、マーケティング責任者のシンガポール人が、商品(モノ)を評価するのにsexyという言葉を使ったことに感嘆したことがあった(流行言葉だったのか、その後、公式の場で不用意にsexyという言葉を使って叩かれた政治家がいたが、半分、同情している)。日本語に訳せば、「艶っぽい」と言えなくもない。痩せても枯れても、どこかに「艶っぽさ」があるのは、もとより自分は遠く及ばないにしても、人として憧れである。
俳句では秋の季語だそうだ。一週間前に撮影したときから、俄かに秋らしくなったが、写真でも既に秋の気配が感じられる。振り返れば短かったような夏の終わりに。
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