東京オリンピックは、開幕二週間前になって、東京・埼玉・千葉・神奈川に続き、北海道でも無観客で開催されることに決まった。東京で緊急事態宣言(明日から8/22迄)が発出されることに端を発する諸々の事情によるようだが、なんとも残念だ。
宣言は回数を重ねるごとにその理由や目的が国民に伝わりにくくなっているように感じると詫摩佳代さん(東京都立大学教授)が語っていたが、私も今回ばかりは疑問に思う。
政府のコミュニケーションの取り方がいま一つこなれないのは、今に始まったことではない。ドイツのメルケル首相やニュージーランドのアーダーン首相のように・・・とまでは言わないが、リーダーのリスク・コミュニケーションあるいはクライシス・コミュニケーションを通して国民の共感を得て信頼を醸成することは、危機に対処するための貴重な基盤を構成するはずだが、スガ首相にしても安倍前首相にしても、有事と言うよりは平時に官僚が用意した原稿を棒読みするかのようで、想像するに国民の心に響かないのは残念だ。特に安倍さんの時代にメディアとの関係性に問題があったと思うが、メディアの姿勢だけでなく政治には説明責任があって、どっちもどっちだろう。
中でも経緯説明が足りない。本来、緊急事態宣言は医療崩壊を避けることを目的とする予防措置だと理解しており、その意味では、重症患者の大部分を占める高齢者(65歳以上)のワクチン接種が今月末で完了すると言われるので、緊急事態宣言は必要なくなるのではないかと期待していた。実際にスガ首相は三日前の会見で、「東京では、重症化リスクが高いとされる高齢者のワクチン接種が70パーセントに達する中・・・(中略)・・・重症者用の病床利用率も30パーセント台で推移するなど、新規感染者数が増加する中にあっても、重症者の数や病床の利用率は低い水準にとどまって」いると言っておきながら、「ワクチン接種が大きく進み、新型コロナとの闘いにも区切りが見えてきた中で、ここで再度、東京を起点とする感染拡大を起こすことは絶対に避けなければなりません」と、いつの間にか感染拡大を抑制することが目的化してしまっている。この目的のすり替えを聞くと、此度の宣言は(これまでの姿勢を翻して)東京オリパラを無観客にするためにこそ発出したのではないかと疑ってしまう。無論、その先にあるのは、秋の衆院選挙である。都議会選挙で負けたし、人流が活発化する夏休みを控えているし、東京オリパラをキッカケとする「失敗」は許されないと、反対派に押し切られたのではないか・・・ことの真偽はともかくとして、こうした下衆の勘繰りを呼ぶこと自体が、危機に対処するために良かろうはずはない。
因みに、添付グラフから読み取れるように、3度目の宣言までは、いろいろ文句を言われながらも、所謂ハンマー&ダンスで、拡大する新規感染者ひいては重症者を抑えるために発出されてきた(宣言後1~2週で感染者数が、更にその1~2週後に重症者数がピークアウト)。ところが4度目の宣言発出のタイミングは、これまでのパターンを踏襲していないことは明らかだ。なんだかやり切れない。
振返ると、日本におけるコロナ禍対応は、昨年3月以来、東京オリパラ開催の影響を受けて来た。本当はオリパラを主語にして語りたいところだが、なかなかそう出来ないもどかしさがある。長引くコロナ禍で国民が疲弊する中、メディアはパンデミック危機を煽り続けるばかりで、「さざ波」と発言すると、それでも医療逼迫してしまう医療体制(つまりは医師会や行政)が問題視されるのではなく、発言した本人が叩かれる始末である。現場の医師や国民一人ひとりの頑張りで何とか持ち堪えて、超過死亡マイナスの日本で、「国民の命が大事」という正論が必要以上に勢いを得て、かつてオリパラ誘致を祝福した多くの国民は、いつの間にかオリパラを邪険に遠ざけてしまった(ように見える)。気の毒なのは、水を差されたオリパラであり、参加する選手たちだと思う・・・というのは少数意見であることを自覚した上で、敢えて述べたい。利権まみれのオリパラの意義を問う声があがるのはその通りで、それは運用上の問題として別に議論すればよいことだ。古代ギリシアに倣ってスポーツを通して鍛え上げられた肉体を賛美し、4年に1度の代理戦争とも言われる平和の祭典を(実際の戦争以外の理由で中止することなく)開催することの意義は変わらないはずだ。そうは言っても、所詮は「余興」であり、今は戦争に準じる有事だと言われると、立場は弱い。が、それでも、政府が国民のゴンセンサスを得ることに成功しなかったとは言え、「命」と「余興」の間のバランスのとり方が、いつもの日本人らしい冷静さを欠いていた(と少なくとも私には見えた)のを残念に思う。
私のような素人がいくら言ったところで、チンピラの遠吠えでしかないが、現役の医師である大和田潔さんが、「日本では医療崩壊するようなコロナウイルス流行は終わった」 「日本はすでにコロナと共存できる環境に無事パラダイムシフトできた」 「(オリンピックの)祭典は、コロナと共存して人間が立ち上がっていくことを証明する機会になる」 「先進国の日本からパラダイムシフトを示すことになる今回の経験は、国民の自信や誇りにつながると思う」などと、挑発的とも取れる大胆な発言をされている(下記参考)。残念ながら、ぎりぎりのところで腰砕けになってしまったが、このオリンピックは、私たち日本人が国際社会と先人から受け継いだ公共の責務を果たし、無事の開催を通してパンデミック対応の底力を見せつける格好の機会となることを願ってやまない。
(参考)「現役医師『ゼロコロナは永遠にやってこない。だからオリンピックを楽しもう』」(プレジデントオンライン 7月7日付) https://president.jp/articles/-/47500
宣言は回数を重ねるごとにその理由や目的が国民に伝わりにくくなっているように感じると詫摩佳代さん(東京都立大学教授)が語っていたが、私も今回ばかりは疑問に思う。
政府のコミュニケーションの取り方がいま一つこなれないのは、今に始まったことではない。ドイツのメルケル首相やニュージーランドのアーダーン首相のように・・・とまでは言わないが、リーダーのリスク・コミュニケーションあるいはクライシス・コミュニケーションを通して国民の共感を得て信頼を醸成することは、危機に対処するための貴重な基盤を構成するはずだが、スガ首相にしても安倍前首相にしても、有事と言うよりは平時に官僚が用意した原稿を棒読みするかのようで、想像するに国民の心に響かないのは残念だ。特に安倍さんの時代にメディアとの関係性に問題があったと思うが、メディアの姿勢だけでなく政治には説明責任があって、どっちもどっちだろう。
中でも経緯説明が足りない。本来、緊急事態宣言は医療崩壊を避けることを目的とする予防措置だと理解しており、その意味では、重症患者の大部分を占める高齢者(65歳以上)のワクチン接種が今月末で完了すると言われるので、緊急事態宣言は必要なくなるのではないかと期待していた。実際にスガ首相は三日前の会見で、「東京では、重症化リスクが高いとされる高齢者のワクチン接種が70パーセントに達する中・・・(中略)・・・重症者用の病床利用率も30パーセント台で推移するなど、新規感染者数が増加する中にあっても、重症者の数や病床の利用率は低い水準にとどまって」いると言っておきながら、「ワクチン接種が大きく進み、新型コロナとの闘いにも区切りが見えてきた中で、ここで再度、東京を起点とする感染拡大を起こすことは絶対に避けなければなりません」と、いつの間にか感染拡大を抑制することが目的化してしまっている。この目的のすり替えを聞くと、此度の宣言は(これまでの姿勢を翻して)東京オリパラを無観客にするためにこそ発出したのではないかと疑ってしまう。無論、その先にあるのは、秋の衆院選挙である。都議会選挙で負けたし、人流が活発化する夏休みを控えているし、東京オリパラをキッカケとする「失敗」は許されないと、反対派に押し切られたのではないか・・・ことの真偽はともかくとして、こうした下衆の勘繰りを呼ぶこと自体が、危機に対処するために良かろうはずはない。
因みに、添付グラフから読み取れるように、3度目の宣言までは、いろいろ文句を言われながらも、所謂ハンマー&ダンスで、拡大する新規感染者ひいては重症者を抑えるために発出されてきた(宣言後1~2週で感染者数が、更にその1~2週後に重症者数がピークアウト)。ところが4度目の宣言発出のタイミングは、これまでのパターンを踏襲していないことは明らかだ。なんだかやり切れない。
振返ると、日本におけるコロナ禍対応は、昨年3月以来、東京オリパラ開催の影響を受けて来た。本当はオリパラを主語にして語りたいところだが、なかなかそう出来ないもどかしさがある。長引くコロナ禍で国民が疲弊する中、メディアはパンデミック危機を煽り続けるばかりで、「さざ波」と発言すると、それでも医療逼迫してしまう医療体制(つまりは医師会や行政)が問題視されるのではなく、発言した本人が叩かれる始末である。現場の医師や国民一人ひとりの頑張りで何とか持ち堪えて、超過死亡マイナスの日本で、「国民の命が大事」という正論が必要以上に勢いを得て、かつてオリパラ誘致を祝福した多くの国民は、いつの間にかオリパラを邪険に遠ざけてしまった(ように見える)。気の毒なのは、水を差されたオリパラであり、参加する選手たちだと思う・・・というのは少数意見であることを自覚した上で、敢えて述べたい。利権まみれのオリパラの意義を問う声があがるのはその通りで、それは運用上の問題として別に議論すればよいことだ。古代ギリシアに倣ってスポーツを通して鍛え上げられた肉体を賛美し、4年に1度の代理戦争とも言われる平和の祭典を(実際の戦争以外の理由で中止することなく)開催することの意義は変わらないはずだ。そうは言っても、所詮は「余興」であり、今は戦争に準じる有事だと言われると、立場は弱い。が、それでも、政府が国民のゴンセンサスを得ることに成功しなかったとは言え、「命」と「余興」の間のバランスのとり方が、いつもの日本人らしい冷静さを欠いていた(と少なくとも私には見えた)のを残念に思う。
私のような素人がいくら言ったところで、チンピラの遠吠えでしかないが、現役の医師である大和田潔さんが、「日本では医療崩壊するようなコロナウイルス流行は終わった」 「日本はすでにコロナと共存できる環境に無事パラダイムシフトできた」 「(オリンピックの)祭典は、コロナと共存して人間が立ち上がっていくことを証明する機会になる」 「先進国の日本からパラダイムシフトを示すことになる今回の経験は、国民の自信や誇りにつながると思う」などと、挑発的とも取れる大胆な発言をされている(下記参考)。残念ながら、ぎりぎりのところで腰砕けになってしまったが、このオリンピックは、私たち日本人が国際社会と先人から受け継いだ公共の責務を果たし、無事の開催を通してパンデミック対応の底力を見せつける格好の機会となることを願ってやまない。
(参考)「現役医師『ゼロコロナは永遠にやってこない。だからオリンピックを楽しもう』」(プレジデントオンライン 7月7日付) https://president.jp/articles/-/47500
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます