風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

模倣と創造

2016-11-04 01:34:50 | 時事放談
 ドイツ政府が、中国国有の投資ファンドによるドイツ半導体企業(アイクストロン)の買収に対する認可を取り消したと報じられた。アメリカの諜報機関がドイツ政府に対し、この売却で中国は軍事転用可能な技術を手に入れることになると警告したからだという(Newsweek日本版)。2020年までにイノベーション型国家への転換を目指す中国は、昨秋、米中の投資協定が不調に終わって、中国マネーは欧州、とりわけ技術大国ドイツに向かい、そこでも警戒感が広がると、次には日本に向かいかねない。
 前回ブログで「模倣と創造」(池田満寿夫著)に触れた。本の詳細は忘れてしまったが、「オリジナル」の意味を突き詰め「模倣」に積極的な価値を認めたもので、芸術家目線に新鮮な感動を覚えるとともに、俗なところで「模倣」に対して抱いていた否定的なイメージが払拭されてほっとしたのを覚えている。それは戦後の日本が工業生産の上で「ものまね」から出発し、やがて欧米先進国に追いつき追い越すまでに至りながら、彼らのやっかみからか自虐的にへりくだってか、日本の生い立ちに「ものまね」イメージが付きまとい、どこか後ろめたさを感じていたことと関係するのだろう。ルーブル美術館に行けば、「模倣」に精を出す画家の卵を見かけるように、「模倣」はその道を歩むごく自然なステップなのだろう。長じるにつれ、工芸の世界ではマイセンに柿右衛門様式があったことを知り、また日本人好みのゴッホやモネの絵に浮世絵が描かれるなど、芸術の世界にジャポニスム(日本趣味)があったことを知った。そして日本の「ものまね」イメージを完全に払拭し去ったのは、自らの努力もさることながら、中国という新たなコピー大国の登場だった。
 問題は「模倣」そのものではなく、誰もが「模倣」から始めるにしても、そこで得た技術や技法をもとに、単なる「模倣」を脱して「創造」へと向かう持続的・自律的な軌道を描けるかどうかにあるのだろう。日本も、リバース・エンジニアリングを駆使して、技術の習得(コピー)に努めた時期があったが、やがて自分のものにした上で自分のスタイルを築くに至った。それは機能性を超える意匠と経済性を超える品質の追求である。中国でも、華為や中興といった一部のIT企業の中には特許出願数で世界トップクラスに位置するなど技術革新を進めている。しかし中国全般の印象として、偏見を恐れずに言えば、そもそも経済価値を超えるプレミアムなもの、所謂ブランド価値には理解も興味もなさそうなこと、そして地道な技術革新をコツコツ続けるほど我慢強くなさそうなこと、そのため意匠や新技術はカネで買うか盗んだ方が早いと考えそうなこと、を感じてしまうのである。えらい大雑把な偏見であるが、そこには「創造」への契機がない。
 そこに、中国の“国家”資本主義の問題が覆いかぶさる。華為はバックドアの疑いでアメリカの官公庁ビジネスから排除されているし、中興もイランへの違法輸出のためアメリカから制裁されかかっている(とりあえず制裁停止措置が継続中)。冒頭のドイツ企業買収も同様で、中国企業による他国の企業買収には、企業の陰に国家が隠れていることが疑われるため、純粋なビジネスにとどまらず安全保障問題が付きまとうのである。そのときカネに糸目は付けない。
 困った隣人である。日本の産業基盤をなす中小企業は守らなければならない。
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署名本

2016-11-01 22:49:54 | 日々の生活
 都心の、ある古書店は、古ぼけた佇まいそのままに、無造作に有名作家の署名本を多く並べていて、私も時折り立ち寄ってはしげしげと眺めることがある。印刷された画集ではなく、美術館でホンモノの絵の、そのリアルな大きさとともに、微妙な色合いや塗り重ねられた絵の具の生々しい立体感を眺めていると、時空を超えて画家の息遣いが伝わって来るようで、ちょっとした緊張感を覚えて堪らないものだが、単なる印刷物に過ぎない書籍も、直筆の署名があることによって作家の作品であることを自己主張しているようで、作家を前にしたようなある種の重々しい空気が流れるような緊張感を覚えるのである(ただの気のせいだが)。永井荷風や三島由紀夫といった私の好きな有名作家の署名本ともなると、最低3万円(場合によっては10万円)もして、そこまでの好事家ではない私は、個性的な筆致に見入っては、ささやかに目を楽しませ、溜息をつくのである。
 古書店では斯様に値がつく署名本も、リサイクルショップのブックオフでは、署名があろうものなら汚れと見なされかねず、どうも価値は認められていないようだ(そもそも事務的に値付けをしているので、気が付かないし、気にもしないのだろう)。以前、谷内正太郎さんや一橋大・石倉教授の署名を見かけたことがあるが、値付けは変わらなかった(まあ官・学の世界の人だから当然だろう)。ところがある時、署名本とは違うが、たまたま手にしたフランスの詩人ピエール・ルヴェルディの詩集に、唐木順三さんが編集者から贈られた書籍のことをしたためた礼状が挟まれているのを見つけて、その一枚の葉書のために、その本ごと衝動買いしたことがある(300円くらい)。また、昔懐かしい佐伯彰一さんの本を買ったら(250円)、署名とともに知人と思しき宛名が添えられていて、後で調べたら同時期に東大教員だった方と判明して、その本の数奇な運命に思いを馳せたものだ。その程度に、私は酔狂である。が、繰り返すが、柳澤協二さんの本に署名があったからと言って買ったわけではない。
 つい先日、立ち寄ったブックオフで、池田満寿夫さんの「私のピカソ 私のゴッホ」(単行本)を見つけて、懐かしくなってつい手に取ってみた。その昔、クイズ番組に出て来る変わり者の彫刻家程度にしか見ていなかったが、学生時代に「模倣と創造」を読んで以来、見る目が変わり、絵画に対する私の好みも変わって(つまり日本人好みの印象派から離れて行って)、その後、古書店で見つけた芥川賞受賞作「エーゲ海に捧ぐ」の初版本を買うほどには、気になる(お気に入りの)存在となっていた。さてその「私のピカソ 私のゴッホ」は、古臭さを全く感じさせない、新古車ならぬ新古本で、それにもかかわらず1983年の初版であることに気が付き、意外に思って、さらにパラパラめくっているうちに、中表紙にパラフィン紙が挟んであることにも気が付いて、反対頁に落款の印と署名を見つけた。当時の定価2000円はそれほど安い値段ではないが、今、いくら美品とは言え1260円とは安くない(最近のブックオフは美品の値段を上げている)。しかし、署名本なら高くはない・・・かな。ささやかなコレクションがまた一冊・・・これじゃあ荷物が増えるわけである。
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