
《日本人の悲劇 より》(昭和42年2月)
【419~420ページ】「岡島家の人々」
銀座の岩谷(天狗岩谷煙草といって、ちょうど、四丁目の角の三越デパートのへんに、等身大の天狗人形を軒先にかざってあった、専売以前のたばこ店で、老人ならばおぼえている人もあるでしょう)の主人も、大勢の妾に大勢の子を生せて、道であいさつされて、知らない顔を相手をじろじろみていると、あなたの四十何番の息子ですよと言われたという、笑話のような話がのこっています。

【434ページ】「大黒屋の人々」
人はただ変わりものあつかいをしていたようですが、生きる場がちがってしまって、うまく新しい方向についてゆけないような武骨な教育をうけて、きせる屋の押込みになるか、北海道開拓の移民になるか、安藤のような寄宿者(いそうろう)になるかは、人それぞれの持ち前の性質と、ちょっとしたアブストラック(抽象的)な姿なのかもしれません。
[ken] 明治時代に入ると、口付きたばこのみならず、刻みたばこの製造技術は欧米の先進技術も取り入れ大幅に進歩したそうです。419~420ページの岩谷松平さんの「天狗岩谷煙草」と、村井吉兵衛さんの「村井兄弟商会」の宣伝合戦は、女性のヌードポスターをはじめとして、後の世まで語り草になっているほどです。その岩谷松平さんが、40人以上もの子どもを作ったというのは、平成の世にいる私たちの想像を超えていますね。
また、434ページの「新しい方向についてゆけない」人たちについては、現在でも多数生まれ続けていますし、ある意味では私だって例外ではありません。「ついてゆけないのが悪くて、ついてゆければそれで良いのか?」といえば、決してそうではありませんから、現役世代を卒業した人たち、うまく世の中に適応できず、結果的に弾き(はじき)出された人たちなどと、一緒に共生していくことが肝要だと思います。(つづく)