
【32ページ】
寛美 それで、生まれが新潟ですねん。上越。越後の高田というとこです。それでまあ長男以外の下の者がこっちへ出てきまして、役者になったんでしょう。ほんで、震災だ。焼けた。ほんで花柳章太郎先生が芝居がないから関西へ来はった。
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米朝 薬(酒)飲んでは薬飲み。
寛美 ほんまだ。そやけど、これだんなん。やっぱり役者でも師匠でもそうやと思うわ。悪いと思うてて飲むとか食べるとか、人間の弱さが芸だっせ。僕、部屋へ花もろうてまっしやろう。葬式花むろてると思うてま。(笑)きょうの芸は、あしたもうできしません。そうでしゃろう。
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寛美 それはね、正岡容さんの書く芝居でね。(笑)けどね、ようしかし正岡先生にしたってね、秩父重剛という人にしたってね、これは思いまへんか、あの方々の小説は今でもやれまっしゃろ。なぜいうたら、人間を書いてある。
米朝 まあね、ほんまにええのおまっせ。
[ken] 寛美さんの父は上越市生まれだそうですが、上越市それも高田には今も旧友が住んでいます。スキーが、日本に初めて伝来したのも高田です。私は42年前、高田でスキーを覚えました。旧友は実家に帰省するとき、直江津までの所要時間は同じぐらいだったので、名古屋まわりにするか上野まわりにするか、たびたび悩んでいた記憶があります。最近、実際に関東大震災を体験された作家の小説を読んでいましたので、一つの震災によって人生が大きく変わるは、3.11東北大震災と重なって、より現実感のある事柄として受けとめています。それから、「人間を書いてある」ことが小説の真価なのである、という米朝さんと寛美さんの実感がこもっていますね。(つづく)