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◯桑の実を食いし事 信州の旅行は蚕時(かいこどき)であったので道々の桑畑はいずこも茂っていた。木曽へ這入ると山と山との間の狭い地面が皆桑畑である。その桑畑の囲いの処には幾年も切らずにいる大きな桑があってそれには真黒の実がおびただしくなっておる。見逃ことではない、余はそれを食い始めた。桑の実の味はあまり世人に賞翫されぬのであるが、その旨さ加減は他に較べる者も無いほどよい味である。余はそれを食い出してから一瞬時も手を措かぬので、桑の老木が見える処へは横路でも何でもかまわず這入っていって貪られるだけ食った。何升食ったか自分にもわからないがとにかくそれがためにその日は6里ばかりしか歩けなかった。寝覚めの里へ来て名物の蕎麦を勧められたが、蕎麦などを食う腹はなかった。もとよりこの日は一粒の昼飯も食わなかったのである。木曽の桑の実は寝覚蕎麦より旨い名物である。
[ken] 子どもの頃、私も近所の桑の実を食べましたが、正岡子規さんのように貪るほど口にしたことはなかったです。たしかに、小さな桑の実の大きく黒ずむほど熟した桑の実があり、何度かは美味しいと感じたことはあるのですが、何升も、昼飯代わりになるほど腹一杯食べた経験はありません。桑の実は数粒食べただけでも、舌に紫色の痕跡が残りますので、本書のように大量に食べたら舌どころか、胃腸の壁もすべて紫色になってしまったのでしょうね、きっと。栃木県に23年ほど住んでいましたので、ちょうど3年前だったと記憶していますが、散歩の途中、東北新幹線高架下で桑の実を目にし、一粒食べてみました。栃木県もかつては養蚕県だったようで、今でも桑畑が残っています。薄甘い感じで懐かしい味はしましたが、つづけて食べるほど美味しくありませんでしたね。(つづく)
◯桑の実を食いし事 信州の旅行は蚕時(かいこどき)であったので道々の桑畑はいずこも茂っていた。木曽へ這入ると山と山との間の狭い地面が皆桑畑である。その桑畑の囲いの処には幾年も切らずにいる大きな桑があってそれには真黒の実がおびただしくなっておる。見逃ことではない、余はそれを食い始めた。桑の実の味はあまり世人に賞翫されぬのであるが、その旨さ加減は他に較べる者も無いほどよい味である。余はそれを食い出してから一瞬時も手を措かぬので、桑の老木が見える処へは横路でも何でもかまわず這入っていって貪られるだけ食った。何升食ったか自分にもわからないがとにかくそれがためにその日は6里ばかりしか歩けなかった。寝覚めの里へ来て名物の蕎麦を勧められたが、蕎麦などを食う腹はなかった。もとよりこの日は一粒の昼飯も食わなかったのである。木曽の桑の実は寝覚蕎麦より旨い名物である。
[ken] 子どもの頃、私も近所の桑の実を食べましたが、正岡子規さんのように貪るほど口にしたことはなかったです。たしかに、小さな桑の実の大きく黒ずむほど熟した桑の実があり、何度かは美味しいと感じたことはあるのですが、何升も、昼飯代わりになるほど腹一杯食べた経験はありません。桑の実は数粒食べただけでも、舌に紫色の痕跡が残りますので、本書のように大量に食べたら舌どころか、胃腸の壁もすべて紫色になってしまったのでしょうね、きっと。栃木県に23年ほど住んでいましたので、ちょうど3年前だったと記憶していますが、散歩の途中、東北新幹線高架下で桑の実を目にし、一粒食べてみました。栃木県もかつては養蚕県だったようで、今でも桑畑が残っています。薄甘い感じで懐かしい味はしましたが、つづけて食べるほど美味しくありませんでしたね。(つづく)