前福井県議会議員 さとう正雄 福井県政に喝!

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福井空襲

2009年07月19日 | Weblog
     今日7月19日は1700名が亡くなったアメリカ軍による福井空襲の日です。


福井県の九条の会でも活躍されている詩人の稲木信夫さんが、2年前に九条の会で語った内容が九条の会のHPにも紹介されています。
  引用して、一部を紹介させてもらいます。

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稲木信夫さんのお話しより・・・・・ 福井市の空襲ですが、アメリカの記録によれば、B29爆撃機116機、先導機11機の、合計127機の爆撃機が、1945年、昭和20年7月19日の午後4時にテニヤン島の飛行場を離陸し、硫黄島をへて福井に襲来し、爆撃を終えて右旋回して帰島しています。同じ記録によれば、午後11時24分に爆撃を開始し、午前0時45分に終了、81分間の爆撃でした。落とした爆弾は 高性能の爆弾5発、焼夷弾は集束焼夷弾といって1発からさらに48発に枝分かれしていくものが3785発、ガソリン焼夷弾が5651発 その他30発でした。米軍の爆撃計画では、市の95%を破壊の計画であったが、結果は84.8%の破壊となっています。

   福井市の被災状況は、24870世帯中21584世帯で86.78%、 人口99477人中92304人で93%です。ほとんどの世帯・人が罹災しました。1都市の被災率としては全国で最高のレベルです。死者は1576人(男661人、女915人)、重症後の死亡108人 軽傷5000人以上となっています。これは正確でないことは後の記録運動でも証明されています。
 
  私の福井市空襲の体験ですが、・・・・私は当時9歳、父、母と私の3人の家族で、西別院前の商店街の通りから少し入ったところに住んでいました。
 ・・・私たちはまず通りへ出て逃れようと、走り出しましたが、足元に焼夷弾が落ち、目の前の屋敷が爆弾の直撃をうけて燃え上がり、通りへ出るのは断念しました。お屋敷との境の小川(川幅1メートルくらい)の中に私は母親に抱かれたまま布団をかぶり(布団をどこから持ち出したのか)、父親がバケツで布団に水をかけ続けてくれました。布団にかかるバシャという水音は、今でもよく覚えています。そのままどこにもいけずに朝まで川の中にうずくまっていました。布団の隙間からのぞくと、通りの家々が焼け、一面火柱が立ち燃えているのが見えました。そのうちに私は気絶してしまったと、後に母から聞いています。幼年で受けた衝撃は消しがたく、私は今でも沢山の家が燃えていく夢や爆撃機が山を越えて飛んでくる恐ろしい夢をみます。

・・・・県庁への裏門の坂道の両側に多くの焼死体がまだ燃えくすぶり続けていました。立ったり座ったりしたままの姿の焼死体でした。お堀に飛び込んで這いあがれず、死んだ人も多いと後で聞きました。兵隊からおにぎりをもらい、帰るのですが、両側を見るのが怖く、ただ必死に駆け抜けた記憶があります。・・・・・ ともあれ、平和は私たちの力で絶対に守らねばなりません。戦争への反省の上に平和を守ることを、私たちの祖父母、父母の後継者として誓い、訴えていきましょう。・・・・・・・

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   多くの戦争体験が語られ、「二度と戦争してはいけない」とのつよい世論を形成してきている。わたしたちが参加する「九条の会」の運動もそのひとつだと思う。

  最近、北朝鮮を先制攻撃しよう、などと主張する自民党の政治家や宗教団体系の新興政党があるが、福井空襲の実態、全国各地の戦争被害を想起すれば、それは、罪なき多数の人間をまきこみ「不幸を実現」することになるのは明らかだろう。

  ブッシュ前大統領のアフガン、イラク攻撃の「勇気」を讃える人がアメリカ国内でも少なくなった。蛮勇ではなく、憲法九条をいかす理性の政治がもとめられるのではないか。

 福井空襲の日に、現代政治をかんがえてみることも、生きることを突然奪われた1700名の市民への「供養」になるのではないか。
「あやまちはくりかえしませんから」  の誓いを破る政治の再来を許してはならない。