前福井県議会議員 さとう正雄 福井県政に喝!

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福井豪雨から5年

2009年07月18日 | Weblog
   福井豪雨 電子百科より・・・・・2004年7月18日未明から福井県嶺北地方や岐阜県では強い雨が断続的に降り始め、18日の明け方には福井県を中心に非常に激しい雨となり、当時の美山町(現福井市南東部)では午前6時10分までの1時間に96ミリの猛烈な雨が記録した(美山町では約1ヶ月の総雨量がわずか1日で降ったとされる)。福井市中心部でも午前8時までの1時間に75ミリの非常に激しい雨が観測された。

 このため、九頭竜川水系の足羽川や清滝川の9箇所で堤防が決壊し、福井市や旧美山町などを中心に多数の浸水害が生じた。
死者は旧美山町、旧清水町(現福井市南西部)、旧今立町(現越前市東部)であわせて3人。行方不明者は鯖江市や旧美山町であわせて2人となった。また、建物の被害については、全壊69戸、半壊140戸となり、14,172戸が浸水する被害が出た。
  足羽川の破堤に関しては、決壊箇所は川がカーブするという地形である上に、福井駅周辺連続立体高架事業のために北陸本線の足羽川鉄橋が二本並んで存在したことや架替工事中の幸橋の橋脚が多かったことが水を堰き止めてしまい水が停滞してしまったことなどが原因に挙げられている。
 また、土嚢倉庫の鍵の管理者がなかなか捕まらなかったことや、派遣された職員が福井市中心部の浸水を防ごうとして、住民の再三に渡る訴えにもかかわらず対岸の越水箇所(福井市春日:後に決壊し甚大な浸水被害をもたらした)を放置したことなどから、人災だとの声もあった。
  ただ中心部への浸水は都市の中枢機能のマヒにつながるため、左岸の住宅街を犠牲にしたと言われている。左岸決壊のため右岸の商業地区の被害は微々たるもので早期復興へつながったと主張する人もいる。

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   福井豪雨から5年。はや5年か、と思う。
あの時は、7月に豪雨災害、8月に日本原子力発電史上最悪の美浜原発事故、と連続しておこり、不眠不休の取り組みだった。
豪雨災害では、まずは、被災救援に、新日本婦人の会事務所にボランティアセンターを開設し全力をあげた。事務局として、当時わたしの事務局をやってもらっていた山岡剛さんが活躍した。全国の共産党や民主団体の人たちもかけつけていただき、物心両面の大きな励ましをもらったことは忘れられない。

   しかし、ウイキぺディアにもあるように、わたしたちが国土問題研究会に依頼した調査でも県の河川管理に問題があり、それが洪水をまきあげ堤防決壊のひとつの要因になったことが暴かれた。当時の県議会でもこういう県の責任を追及したのは私だけであった。
そういう点で、「人災」としての側面があったことも指摘しておかなくてはならない。
   当時、自民党の国会議員、福井市長、私以外の県議会議員や国土交通省は、「足羽川ダム建設が必要」という方向を、ここぞとばかりに加速した。
   福井豪雨をうけて、河川改修がおこなわれ、福井豪雨再来でも洪水は安全に流下し、堤防決壊などの災害はおこらない河川となった。したがって、基本的に1500億円もの税金をかけ、二重投資となる足羽川ダムはいらないのである。問題はこういう河川改修事業が遅すぎたのである。
  なぜ、河川改修が放置されたか。その理由のひとつは、「足羽川ダム計画」との調整のためであった。

     5周年にあたって、県も、わたしたち県民も冷静に振り返ることは大事だと思う。