土曜日、義父の3回忌。
義父側の親戚にも集まっていただき、近所のS寺で営む。私はここの住職の仏事の進め方が好きである。「お経聴いてるだけやったら退屈やろうから」と言い、全員に教本を配る。「何ページから何ページまで唱えます。振り仮名付いてますから、よかったら一緒に声出して下さい」。ボーッと聴いてるだけより良い。読経と焼香が終わると、少し説法がある。これも念仏の由来から、阿弥陀仏は何故あのような姿かたちをしているのか、みたいな話。堅苦しくなく、うんちくとして他でも話ができそうな内容だ。
終わってから、近くの寿司屋で会席。献杯の後、食事をしながら歓談。「歓談」という表現をあえて使うのは、やはり3回忌ともなると、あまりしみったれた感じではなく、故人の思い出をわいがやで話せるから。良い意味で、時間とともに悲しさは薄らいでいってるのかもしれない。
こうして無事滞りなく終える。
次は7回忌、まだまだ先か。親戚筋まで呼んで行うのは、おそらく今回までだろう。
義父側の親戚にも集まっていただき、近所のS寺で営む。私はここの住職の仏事の進め方が好きである。「お経聴いてるだけやったら退屈やろうから」と言い、全員に教本を配る。「何ページから何ページまで唱えます。振り仮名付いてますから、よかったら一緒に声出して下さい」。ボーッと聴いてるだけより良い。読経と焼香が終わると、少し説法がある。これも念仏の由来から、阿弥陀仏は何故あのような姿かたちをしているのか、みたいな話。堅苦しくなく、うんちくとして他でも話ができそうな内容だ。
終わってから、近くの寿司屋で会席。献杯の後、食事をしながら歓談。「歓談」という表現をあえて使うのは、やはり3回忌ともなると、あまりしみったれた感じではなく、故人の思い出をわいがやで話せるから。良い意味で、時間とともに悲しさは薄らいでいってるのかもしれない。
こうして無事滞りなく終える。
次は7回忌、まだまだ先か。親戚筋まで呼んで行うのは、おそらく今回までだろう。