ほっぷ すてっぷ

精神保健福祉士、元新聞記者。福祉仕事と育児で「兼業」中。名古屋在住の転勤族。

アメリカ ニュース報道の危機

2007-09-07 15:30:26 | Public
BS世界のドキュメンタリーで全四回。二回だけしか見られなかった。

見たのは、
第二回の「国益か 国民の知る権利か」
第四回の「利益第一主義の弊害」

前者は、主に戦争関係の報道(National security)を、メディアはどこまでオープンにしてよいのか。例えば、大統領通達による国民間の電話・Eメールの傍受許可がなされていた、とか、東ヨーロッパに極秘の戦争犯収容所を作っていたとか、テロ組織のお金の流れを明らかにするための組織を作っていたとか。
大統領任期も後半になると、どの政権でもこういった情報が流出しやすくなるのだという。というのは、「これが本当に国益になるのだろうか?間違ってないか?」と疑問を抱くCIAやFBI、その他官僚たちが次々に出てくるからである。他の理由には、(私見だけども)アメリカはおそらくこういったことに関わる組織がいくつもある。関わっている人間は多いのではないかと思う。

確か、政府系の情報機関は
CIA、国防総省情報局、INR、NSA、NRO、ROE、海軍、陸軍、空軍、とこんなにもある。

おおよそアメリカらしい話だなぁと感じながら、「今までと違って、国民はメディア側を支持しなくなってきた」というのが気になった。イラク戦争に反対するアメリカ国民は多いというが、メディア先導ではないということを表しているのか?
もし日本だったら・・・例えば、WTO交渉で米の関税を下げるよう要求させないように、交渉相手に「働きかけ」を行っているのを報道するとか?
違うな。ちょっと日本では同じケースは想像できない。

後者は、非常に面白かった。
ロサンジェルス・タイムスの買収劇をメインに、報道と経営を堂両立していくかについて問う。2000年トリビューン紙に買収され、Cut Cut Cutでニュース人員をも削減。アメリカ第四の新聞社は混乱に陥った。そのトリビューン紙が2007年4月、不動産王に買い取られる。シリーズのラストに持って来るべきトピックだ。

結局、「人々は新聞にいくらまで払うか?」という問題。
これも、介護と同じCost Diseaseの話だろうと思う。労働集約的な生産物に対し、賃金は労働生産性以上のものをつけざるを得ない。(他の産業とある程度比例的に)。そうすると賃金(コスト)の上昇が相対価格の上昇を伴わざるを得ないが、代替の場合そんなに価格転嫁なんて出来ない(売れなくなるから)。こうして、価格弾力性が正(価格が上がるほど需要が増える、ブランド品とか)のもの以外について、Cost Diseaseが起こる。

さて、人の新聞への留保賃金はいくらくらいだろうか。
もしかしたら、新聞業界の人は「コンピュータウイルスがはびこったり、デマのネット・ニュースやブログ情報で不幸な事件が起こったりしないかな」と願っているかもしれない。


これを機に、当たり前だけど、就職する会社についてもっと調べてみなくちゃと思うようになった。株式とか。そんなに簡単じゃないかもしれないけど。

放送の最後の最後。
「生き残っている新聞は、どれもオーナー企業ばかり。ワシントン・ポストはグレ アム家、ニューヨークタイムズはザルツブルグ家、、、」

情報コストが小さくなってきた時代に、情報の質に対して要求が強くなるだろうか?(なるべきだと思うが)
そして、情報の質に対して信頼を得られるだろうか?
この後者の問いが、50年後の新聞業界を左右するのかもしれない。

SEIZE THE DAY―――今を生きる

2007-09-03 00:59:00 | Movie
自殺した彼は、自分自身だったんだ。

最後のアンダーソンの気持ちはそうだったはずである。
自分を開放する。
それがSEIZE THE DAY。

尊敬すべき先輩のメールアドレスは、
この映画のキーフレーズから来てるのか、他から来てるのかはわからない。

でも、SEIZE THE DAY。

ロビン・ウィリアムズにはいつも泣かされます。

モリシマ・ミチオ

2007-09-02 00:04:53 | Book
『血にコクリコの花咲けば』
『智にはたらけば角が立つ』
『終わりよければすべてよし』

という森嶋通夫(経済学者)の自伝三部作を読み終わった。爽快な読後感である。彼が、正々堂々、常に「ディシプリン」を持って生きた道だからだろう。その爽快感は、「私には出来ないから」という自分自身の諦めを反映しているかも知れず、そう考えると少し切なくなってくる。それほど、彼は貫いた人である。

 手短に森嶋通夫を紹介すると、国際的に認められた、一流の数理経済学者である。京大、阪大と日本で20年ほど居て、イギリスで30年ほど教えた。なくなったときにはTIMEに追悼の記事が半ページほど載ったらしい。
 もう少し多角的に見ると、1923年から2004年を生きた日本人であり、学徒出陣をして海軍に居た人であり、研究者であり、学者であり、経済学者であり、数理経済学者であり、イギリスで30年を暮らした人である。当然ではあるが、それぞれの面で、語るべきヒストリーが彼の人生の中にある。

 これは経済学専攻の人用の本では決して無い。一人の人間としてのそれぞれの側面で、常にディシプリンを持ち、「筋を通してきた」人である。それゆえに人と対立も多く、その結末は日本でのそれとイギリスでのそれが対照的であった。日本では対立・議論が常に関係の悪化、事態の悪化をもたらした。それがイギリスでは、新しい関係や、少なくともすっきりした妥協策へとつながる。それがなぜなのか?―――彼のイギリスへの好感はここから始まっているようでもある。もちろん学問的な発展を求めての渡英ではあるが。とにかく、解説してくれるいざこざのなかで彼がどういうディシプリンで対応してきたかが見て取れる。「ディシプリンを持つとはこういうことか」と背筋が伸びる。それは、人間関係におけるそれであり、学問をする人間としてのそれである。特に後者において、非常に格好良いと思わされる。文の調子も歯切れがよく、私は好きだ。

「ディレッタントは嫌いだ」「しかし私はディレッタントである」と第三巻の最後の最後に書いている。ディシプリンかディレッタントか。これは誰にも身近な、共存する問題のように思える。論理を貫くか、世俗的に選択するか。答えは、「ディシプリンを貫いた人だけが、スケールの大きいディレッタントになれる」ということか。彼が明示しているわけではないが、そのように思える。私は究極的にディレッタントな道に進もうとしているが、彼のような人間としてディシプリンと、ものの考え方としてのディシプリンを、忘れないようにしたい。

私は、特に第二巻の日本での大学内抗争の場面を面白く読んだ。
「なぜ京大の経済学部は戦後マルクス経済学のメッカとなったのか?」(それゆえに京大の経済学部はあんまり強くない)に興味がある人は是非第二巻を。
そして身近にヒックスがいて、ロビンソンがいて、ハイエクもカルドアも出てくる、という環境に憧れたら第三巻を。
そういえば、彼はイタリア人の学生に「ミチオはmichoで子猫という意味だ」といってからかわれる場面がある。実は私も、「ミチコは子猫という意味だ、お前は子猫だ」と留学中イタリア人に言われていた。どうでもいいが、ちょっと面白かった。

最後に。本書の中で、しょっちゅう、自然に登場する「妻」、そして夫婦の空気。それに非常に憧れた。私の憧れる雰囲気を知りたければ二巻と三巻を(笑)。