アフガニスタンで診療活動を展開している中村哲氏の、活動・現況報告。
今何が起こっていて、何が必要だと判断し、どのように動いているか。3,4時間で読める本だったが、30時間は考えさせられるような本である。
現に私も、読んでからずっと、考えさせられている。
ひとつは、幸せとは何か、ということである。
幸せには、絶対的幸せと相対的幸せがあるのではないだろうかということを考えた。
絶対的貧困と相対的貧困があるように。
絶対的幸せとは、人間の本能に対する満足度、とでも言えるだろうか。
私が挙げる要素は三つ、「ご飯、健康、いい天気」である。
もちろんみっつは相互に関連している。アフガニスタンにあるような農耕生活ならなおさらである。
相対的幸せとは、世間のスタンダードを満たす、越える、という比較から満足度の高まりうるもの。
ガルブレイスの言う依存効果にもつながる。
否定的に考えるのではなく、私たちの生活の中にこの類の幸せは多いと思う。
知的好奇心を満たす、ということでさえ相対的幸せの面がある。
私が考えた絶対的幸せのこの3要素「ご飯、健康、いい天気」。
何を隠そう、私は中学生のときに気づいていた。
中学校の教室で、昼休みに高低側に出来る日向に立って、「お天気で、おいしいものがあって、健康だったら私という人間は幸せなんだぁ」と思っていた。大谷さんによくそう漏らしていた記憶がある。
今になって、この絶対的幸せの要素を生み出したり、支えたりすることに非常に価値を感じ始めている(本の影響を受けやすい体質)。
中学校の頃からこの要素に気づいていて、なぜ医者にならなかったのだろう?農業とか、何か科学系の学科に進まなかったのだろう?
ランニングしながら出てきた答えは、「幸せだったから」だ。
健康だったし、うちのご飯は最高だったし。
・・・とにかく、医者って、医者になろうって高校時代に思った人ってすごいのかもしれないと最近思う。彼らは高校生までに何を思い、医者を志すのだろう。
やっぱり、国境を越えて誰もがうなずきうる「ニーズ」に気づいていたとしたら、すごい。
もうひとつ考えたことは、
「事の軽重は一様ではない」ということ。
福沢諭吉も書いていたように思うが、これは、ほんとうにそうなのだ。
そして、気をつけていないとどうしても物事を同列で考えてしまう。
どう考えても、人が餓死しようとしている地域のリポートや救助活動と、福田さんと麻生さんの総裁選の話は軽重が違う。
私の視力が落ちた話と、人の生死の話は違う。
生きるため、そして「考える」ためにも、トピックの取捨選択やウェイト付けは必要だし、否定するものではない。ただ、違うのだし、そのことを忘れがちだということだ。
そんなことを考えていたら、頭が混乱に陥った。
時代やコミュニティーや情報に「相対的幸せ」を浮遊させながら人間は生きるのか、
それが真実のようにも見えてくる。
その中で経済学とは何か?
報道の役割とは何か?
ちっぽけに見えてしまって寂しい気持ちもする。
とにかく、引きずり続けている本です。
今何が起こっていて、何が必要だと判断し、どのように動いているか。3,4時間で読める本だったが、30時間は考えさせられるような本である。
現に私も、読んでからずっと、考えさせられている。
ひとつは、幸せとは何か、ということである。
幸せには、絶対的幸せと相対的幸せがあるのではないだろうかということを考えた。
絶対的貧困と相対的貧困があるように。
絶対的幸せとは、人間の本能に対する満足度、とでも言えるだろうか。
私が挙げる要素は三つ、「ご飯、健康、いい天気」である。
もちろんみっつは相互に関連している。アフガニスタンにあるような農耕生活ならなおさらである。
相対的幸せとは、世間のスタンダードを満たす、越える、という比較から満足度の高まりうるもの。
ガルブレイスの言う依存効果にもつながる。
否定的に考えるのではなく、私たちの生活の中にこの類の幸せは多いと思う。
知的好奇心を満たす、ということでさえ相対的幸せの面がある。
私が考えた絶対的幸せのこの3要素「ご飯、健康、いい天気」。
何を隠そう、私は中学生のときに気づいていた。
中学校の教室で、昼休みに高低側に出来る日向に立って、「お天気で、おいしいものがあって、健康だったら私という人間は幸せなんだぁ」と思っていた。大谷さんによくそう漏らしていた記憶がある。
今になって、この絶対的幸せの要素を生み出したり、支えたりすることに非常に価値を感じ始めている(本の影響を受けやすい体質)。
中学校の頃からこの要素に気づいていて、なぜ医者にならなかったのだろう?農業とか、何か科学系の学科に進まなかったのだろう?
ランニングしながら出てきた答えは、「幸せだったから」だ。
健康だったし、うちのご飯は最高だったし。
・・・とにかく、医者って、医者になろうって高校時代に思った人ってすごいのかもしれないと最近思う。彼らは高校生までに何を思い、医者を志すのだろう。
やっぱり、国境を越えて誰もがうなずきうる「ニーズ」に気づいていたとしたら、すごい。
もうひとつ考えたことは、
「事の軽重は一様ではない」ということ。
福沢諭吉も書いていたように思うが、これは、ほんとうにそうなのだ。
そして、気をつけていないとどうしても物事を同列で考えてしまう。
どう考えても、人が餓死しようとしている地域のリポートや救助活動と、福田さんと麻生さんの総裁選の話は軽重が違う。
私の視力が落ちた話と、人の生死の話は違う。
生きるため、そして「考える」ためにも、トピックの取捨選択やウェイト付けは必要だし、否定するものではない。ただ、違うのだし、そのことを忘れがちだということだ。
そんなことを考えていたら、頭が混乱に陥った。
時代やコミュニティーや情報に「相対的幸せ」を浮遊させながら人間は生きるのか、
それが真実のようにも見えてくる。
その中で経済学とは何か?
報道の役割とは何か?
ちっぽけに見えてしまって寂しい気持ちもする。
とにかく、引きずり続けている本です。