ほっぷ すてっぷ

精神保健福祉士、元新聞記者。福祉仕事と育児で「兼業」中。名古屋在住の転勤族。

モリシマ・ミチオ

2007-09-02 00:04:53 | Book
『血にコクリコの花咲けば』
『智にはたらけば角が立つ』
『終わりよければすべてよし』

という森嶋通夫(経済学者)の自伝三部作を読み終わった。爽快な読後感である。彼が、正々堂々、常に「ディシプリン」を持って生きた道だからだろう。その爽快感は、「私には出来ないから」という自分自身の諦めを反映しているかも知れず、そう考えると少し切なくなってくる。それほど、彼は貫いた人である。

 手短に森嶋通夫を紹介すると、国際的に認められた、一流の数理経済学者である。京大、阪大と日本で20年ほど居て、イギリスで30年ほど教えた。なくなったときにはTIMEに追悼の記事が半ページほど載ったらしい。
 もう少し多角的に見ると、1923年から2004年を生きた日本人であり、学徒出陣をして海軍に居た人であり、研究者であり、学者であり、経済学者であり、数理経済学者であり、イギリスで30年を暮らした人である。当然ではあるが、それぞれの面で、語るべきヒストリーが彼の人生の中にある。

 これは経済学専攻の人用の本では決して無い。一人の人間としてのそれぞれの側面で、常にディシプリンを持ち、「筋を通してきた」人である。それゆえに人と対立も多く、その結末は日本でのそれとイギリスでのそれが対照的であった。日本では対立・議論が常に関係の悪化、事態の悪化をもたらした。それがイギリスでは、新しい関係や、少なくともすっきりした妥協策へとつながる。それがなぜなのか?―――彼のイギリスへの好感はここから始まっているようでもある。もちろん学問的な発展を求めての渡英ではあるが。とにかく、解説してくれるいざこざのなかで彼がどういうディシプリンで対応してきたかが見て取れる。「ディシプリンを持つとはこういうことか」と背筋が伸びる。それは、人間関係におけるそれであり、学問をする人間としてのそれである。特に後者において、非常に格好良いと思わされる。文の調子も歯切れがよく、私は好きだ。

「ディレッタントは嫌いだ」「しかし私はディレッタントである」と第三巻の最後の最後に書いている。ディシプリンかディレッタントか。これは誰にも身近な、共存する問題のように思える。論理を貫くか、世俗的に選択するか。答えは、「ディシプリンを貫いた人だけが、スケールの大きいディレッタントになれる」ということか。彼が明示しているわけではないが、そのように思える。私は究極的にディレッタントな道に進もうとしているが、彼のような人間としてディシプリンと、ものの考え方としてのディシプリンを、忘れないようにしたい。

私は、特に第二巻の日本での大学内抗争の場面を面白く読んだ。
「なぜ京大の経済学部は戦後マルクス経済学のメッカとなったのか?」(それゆえに京大の経済学部はあんまり強くない)に興味がある人は是非第二巻を。
そして身近にヒックスがいて、ロビンソンがいて、ハイエクもカルドアも出てくる、という環境に憧れたら第三巻を。
そういえば、彼はイタリア人の学生に「ミチオはmichoで子猫という意味だ」といってからかわれる場面がある。実は私も、「ミチコは子猫という意味だ、お前は子猫だ」と留学中イタリア人に言われていた。どうでもいいが、ちょっと面白かった。

最後に。本書の中で、しょっちゅう、自然に登場する「妻」、そして夫婦の空気。それに非常に憧れた。私の憧れる雰囲気を知りたければ二巻と三巻を(笑)。