新約聖書を読む 10

2019-03-02 09:50:13 | 

 旧約聖書と新約聖書の関係その2。

 イエスの死後、ある神秘体験を経てキリスト教徒になったパウロ(サウロ)。彼もまた、旧約からの引用を行っている。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する、と主は言われる』と書いてあります」(ローマの信徒への手紙12、19)。「復讐するは我にあり」のオリジナルにゃ。だが・・・。

 これの出典は、申命記32、35だという。見てみると・・・。

 「わたしが報復し、報いをする。彼らの足がよろめく時まで。彼らの災いの日は近い。彼らの終わりは速やかに来る」。

 これは、晩年のモーセの歌。「彼ら」とは何なのか。これが、難しい。カナンの先住民とも取れるし、将来エホバの神を裏切ることになるイスラエルの民の子孫とも取れる。いずれにせよ、一般的な復讐を禁じる言葉ではないことは確かだ。いや、それどころか・・・。

 古代ユダヤでは、「血の復讐」が普通に行われていた。過度の復讐を抑えるために、「逃れの町」という制度が設けられたほどだ(民数記35、10~15)。

 前回のイエスもそうだが、弟子のパウロも実に恣意的な引用のしかたをしている。元の意味と全然違うのにゃ。巻末の引用箇所一覧表をすべてチェックしたわけではないが、こういうパターンは相当あるはず。これだけでひとつの論文が書けそうにゃ。

 ところでパウロは、こうも言っている。「人を罪に定める務め(※モーセの律法に従うこと)が栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています」(コリントの信徒への手紙二 3、9)。
 
 また、「(キリストへの)信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません」(ガラテヤの信徒への手紙3、23~25)。

 さらに、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのもの(※ユダヤ人と異邦人)を一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」(エフェソの信徒への手紙2、14~15)。

 もうひとつ、「その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。ー律法が何一つ完全なものにしなかったからですーしかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです」(ヘブライ人への手紙7、18~19)。

 つまりパウロによれば、旧約聖書はキリスト教の「露払い」、「前フリ」に過ぎず、顧みる価値はない、ということになる。それならば、いちいち引用する価値もないことになるのだが、布教のための方便、というやつか。
 同じことは、旧約の教えを重視するプロテスタントにも言える。旧約の文言に頼らない、新しい教えの創出といったものが必要だったのだが・・・。
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