パウロとヨハネの関係。
上山安敏先生によると、フロイトの論考に「パウロとヨハネは対立関係にあって、ヨハネの黙示録はパウロを攻撃するために書かれた」、というのがあるそうだ(「魔女とキリスト教」)。ワシはまだ読んだことがないが・・・。
聖書の記述からも、なんとなくそのことは窺える。まず、パウロ。
「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」(ローマの信徒への手紙13、1)。
「願いと祈りと取り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい」(テモテへの手紙一 2、1~2)。
「わたしたちはキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる」(テモテへの手紙二 2、11~12)。
「人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならないこと、また、だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを」(テトスへの手紙3、1~2)。
見事に、「権力べったり」だ。このような姿勢が功を奏して、キリスト教はローマ帝国の国教になり、さらに世界宗教へと発展した。また、パウロはこうも言っている。
「しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。神の国は言葉ではなく力にあるのですから。あなたがたが望むのはどちらですか。わたしがあなたがたのところへ鞭を持って行くことですか。それとも、愛と柔和な心で行くことですか」
(コリントの信徒への手紙4、19~21)。
「言葉ではなく力」、だと。福音は、言葉ではないのか。キリスト教のあり方を、自分で全否定しているのにゃ。柔和を装っているが、内側には強い権力志向がある。それが、パウロだ。
逆に、ヨハネはこう言っている。
「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にあるものも、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます」(ヨハネの手紙一 2、15~17)。
「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです」(ヨハネの手紙一 5、19)。
パウロとは正反対で、現世を厳しく否定しているが、まあメジャーにはなれないのにゃ。
ヨハネのギリシア志向(哲学的でBL趣味)については前に書いた。この点についても、二人は対立する。パウロは言う。
「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません」(コロサイの信徒への手紙2、8)。
「みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません」(コリントの信徒への手紙一 6、9~10)。
この世の権威はよくて、哲学はだめなのか。特に、BLを否定されたヨハネの恨みは大きい。フロイト説に一票にゃ。