性表現のばらつき。
「さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み・・・」(創世記4、1)。
遠まわしで、実に現代的な表現だ。だが、こういう性表現は、旧約聖書の中では珍しい。むしろ・・・。
「当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった」(同6、4)。
「女のところに入る」。このようなストレートな性表現が、旧約聖書では一般的だ。「ラバンは土地の人たちを皆集め祝宴を開き、夜になると、娘のレアをヤコブのもとに連れて行ったので、ヤコブは彼女のところに入った」(同29、22~23)・・・等々。
同じ創世記なのに、性表現が全然違う。おそらくは数百年もの時を経て、何人もの書き手が関わり、今ある聖書が完成した。そんなところだろう。
最も秀逸な性表現は、シラ書の「わがままな娘は厳しく監視せよ。・・・男と見ればだれにでも身を任せ、矢筒を開いて矢を入れる」(26、10~12)、かな。なかなかうまいことを言うにゃ。