新約聖書を読む 12

2019-03-04 16:58:15 | 

 パウロとヨハネの関係。

 上山安敏先生によると、フロイトの論考に「パウロとヨハネは対立関係にあって、ヨハネの黙示録はパウロを攻撃するために書かれた」、というのがあるそうだ(「魔女とキリスト教」)。ワシはまだ読んだことがないが・・・。

 聖書の記述からも、なんとなくそのことは窺える。まず、パウロ。

 「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」(ローマの信徒への手紙13、1)。

 「願いと祈りと取り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい」(テモテへの手紙一 2、1~2)。

 「わたしたちはキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる」(テモテへの手紙二 2、11~12)。

 「人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならないこと、また、だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを」(テトスへの手紙3、1~2)。

 見事に、「権力べったり」だ。このような姿勢が功を奏して、キリスト教はローマ帝国の国教になり、さらに世界宗教へと発展した。また、パウロはこうも言っている。

 「しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。神の国は言葉ではなく力にあるのですから。あなたがたが望むのはどちらですか。わたしがあなたがたのところへ鞭を持って行くことですか。それとも、愛と柔和な心で行くことですか」
(コリントの信徒への手紙4、19~21)。

 「言葉ではなく力」、だと。福音は、言葉ではないのか。キリスト教のあり方を、自分で全否定しているのにゃ。柔和を装っているが、内側には強い権力志向がある。それが、パウロだ。

 逆に、ヨハネはこう言っている。

 「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にあるものも、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます」(ヨハネの手紙一 2、15~17)。

 「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです」(ヨハネの手紙一 5、19)。

 パウロとは正反対で、現世を厳しく否定しているが、まあメジャーにはなれないのにゃ。

 ヨハネのギリシア志向(哲学的でBL趣味)については前に書いた。この点についても、二人は対立する。パウロは言う。

 「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません」(コロサイの信徒への手紙2、8)。

 「みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません」(コリントの信徒への手紙一 6、9~10)。

 この世の権威はよくて、哲学はだめなのか。特に、BLを否定されたヨハネの恨みは大きい。フロイト説に一票にゃ。


 

 
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新約聖書を読む 11

2019-03-03 17:39:00 | 

 パウロ(サウロ)と十二使徒の関係。

 パウロはもともとはテント造りの職人で(使徒言行録18、3)、最初はキリスト教を迫害するファリサイ派に属していた(フィリピの信徒への手紙3、5~6)。ところがある日、天からの光に照らされ、主イエスの声を聴いた。目が見えなくなったパウロの上にアナニヤという人物が手を置くと、たちまち目は元通りになり、彼は洗礼を受けた(使徒言行録9、3~18)。

 そういえば、「ブラインディド・バイ・ザ・ライト(光に目もくらみ)」という曲があったなあ。それはともかく、このようにパウロは十二使徒の弟子ではなく、神秘体験、つまりイエス・キリストとの「直接的な出会い」によって信徒となった。このことが、十二使徒との関係に微妙な影を落としているように思える。

 キリスト教徒になってからエルサレムに上り、使徒たちと会おうとしたが、会えたのはヤコブひとりだけだった(ガラテヤの信徒への手紙1、19)。

 いつの間にか、使徒ペトロはユダヤ人への布教、パウロは異邦人への布教、という役割分担が出来上がっていた(同2、7~9)。要するに、使徒たちから煙たがられていた、ということか。

 そんなパウロは、「ユダヤ人のキリスト教徒と異邦人のキリスト教徒を差別している」、とペトロを非難している(同2、11~14)。

 また、パウロは告白している。「アリスタルコ、バルナバのいとこマルコ、ユストと呼ばれるイエス。割礼を受けた者では、この三人だけが神の国のために共に働く者であり、わたしにとって慰めとなった人々です」(コロサイの信徒への手紙4、10~11)。十二使徒は、ひとりもいない。

 一方、ペトロはペトロで、こう書いている。「パウロの手紙には難しく理解しにくい箇所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています」(ペトロの手紙二 3、16)。

 「ペトロとパウロは、皇帝ネロの命令で同じ日にローマで処刑された」、という伝承があるが、そもそもこの二人が行動を共にすることがあったのか。怪しいのにゃ。
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新約聖書を読む 10

2019-03-02 09:50:13 | 

 旧約聖書と新約聖書の関係その2。

 イエスの死後、ある神秘体験を経てキリスト教徒になったパウロ(サウロ)。彼もまた、旧約からの引用を行っている。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する、と主は言われる』と書いてあります」(ローマの信徒への手紙12、19)。「復讐するは我にあり」のオリジナルにゃ。だが・・・。

 これの出典は、申命記32、35だという。見てみると・・・。

 「わたしが報復し、報いをする。彼らの足がよろめく時まで。彼らの災いの日は近い。彼らの終わりは速やかに来る」。

 これは、晩年のモーセの歌。「彼ら」とは何なのか。これが、難しい。カナンの先住民とも取れるし、将来エホバの神を裏切ることになるイスラエルの民の子孫とも取れる。いずれにせよ、一般的な復讐を禁じる言葉ではないことは確かだ。いや、それどころか・・・。

 古代ユダヤでは、「血の復讐」が普通に行われていた。過度の復讐を抑えるために、「逃れの町」という制度が設けられたほどだ(民数記35、10~15)。

 前回のイエスもそうだが、弟子のパウロも実に恣意的な引用のしかたをしている。元の意味と全然違うのにゃ。巻末の引用箇所一覧表をすべてチェックしたわけではないが、こういうパターンは相当あるはず。これだけでひとつの論文が書けそうにゃ。

 ところでパウロは、こうも言っている。「人を罪に定める務め(※モーセの律法に従うこと)が栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています」(コリントの信徒への手紙二 3、9)。
 
 また、「(キリストへの)信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません」(ガラテヤの信徒への手紙3、23~25)。

 さらに、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのもの(※ユダヤ人と異邦人)を一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」(エフェソの信徒への手紙2、14~15)。

 もうひとつ、「その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。ー律法が何一つ完全なものにしなかったからですーしかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです」(ヘブライ人への手紙7、18~19)。

 つまりパウロによれば、旧約聖書はキリスト教の「露払い」、「前フリ」に過ぎず、顧みる価値はない、ということになる。それならば、いちいち引用する価値もないことになるのだが、布教のための方便、というやつか。
 同じことは、旧約の教えを重視するプロテスタントにも言える。旧約の文言に頼らない、新しい教えの創出といったものが必要だったのだが・・・。
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