私が30代半ばのころ、朝日新聞・愛知県版からコラムを依頼された。
何編か書いたが、中で「私はぁ、昨日ぉ・・」という語尾伸ばし言葉について書いたことがあった。当時、語尾伸ばし言葉は嫌がられていた。私は反対に、普通の方言は尊重するのに、若者言葉を否定するのはいかがか。若者言葉は時間的な方言である。それに対して普通の方言は空間的な方言であって、両者は別物ではない、と主張した。
さらに、同じ集団内で同じような言葉を使うのは、人間には他の集団構成員と同じでありたいという欲望が本能的にあるからだ。そうすることによって初めて個人は集団の成員とみなされる。だから、若者がみな同じような語尾伸ばし言葉を使用しても、それはむしろ自然なことである、と述べた。
このコラムは愛知県内でけっこう反響を呼んだ。愛知県版の投書欄に、若者言葉を嫌っていた人の反省の弁が載せられた。投書者いわく、「なんどきも私はぁと語尾伸ばす少女の頬を殴りたくなる」という短歌に共鳴していたが、コラムを読んで反省した、と。
だが、白状すると、私も上の短歌には共鳴できる。コラムでは、理屈で考えるとそうなると言っただけで、本当は理屈と感情は常に乖離している。一例を出せば、「方言は美しいから尊重しよう」という呼びかけは理屈であって、感情的にもそう思っているかどうかは甚だ怪しいのである。
何編か書いたが、中で「私はぁ、昨日ぉ・・」という語尾伸ばし言葉について書いたことがあった。当時、語尾伸ばし言葉は嫌がられていた。私は反対に、普通の方言は尊重するのに、若者言葉を否定するのはいかがか。若者言葉は時間的な方言である。それに対して普通の方言は空間的な方言であって、両者は別物ではない、と主張した。
さらに、同じ集団内で同じような言葉を使うのは、人間には他の集団構成員と同じでありたいという欲望が本能的にあるからだ。そうすることによって初めて個人は集団の成員とみなされる。だから、若者がみな同じような語尾伸ばし言葉を使用しても、それはむしろ自然なことである、と述べた。
このコラムは愛知県内でけっこう反響を呼んだ。愛知県版の投書欄に、若者言葉を嫌っていた人の反省の弁が載せられた。投書者いわく、「なんどきも私はぁと語尾伸ばす少女の頬を殴りたくなる」という短歌に共鳴していたが、コラムを読んで反省した、と。
だが、白状すると、私も上の短歌には共鳴できる。コラムでは、理屈で考えるとそうなると言っただけで、本当は理屈と感情は常に乖離している。一例を出せば、「方言は美しいから尊重しよう」という呼びかけは理屈であって、感情的にもそう思っているかどうかは甚だ怪しいのである。