院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

ナショナリズムと郷土愛の源泉

2013-05-29 00:13:49 | 社会
 各地に県人会というものがある。同県出身者どうし親睦を温めている。高校野球のファンもそうだが、試合中は地元の応援に必死になる。それがオリンピックの代表となると、県を超えてみなが日本出身者を応援するようになる。どうも人口の規模によってナショナリズムや郷土愛のあり方が違ってくるようだ。

 石川啄木の「ふるさとの訛り懐かし停車場の人ごみの中にそを聞きにゆく」という短歌からも分かるように、方言は郷土愛を刺激する。同じ方言を話す人には親密感を感じる。日本語もそうだ。日本人なんかいるはずがないと思っていた外国で、日本語が聞こえると急に安心する。

 シオランという人が「国家とは国語である」という箴言を残している。「郷土とは方言である」という言葉も成立しそうである。人間集団は大は国から小は村まで、すべて言語でまとまっている。ここでいう言語とは自然言語のことである。

 言語の違いが戦いを生むと考えたザメンホフは、エスペラント語を共通言語にして世界平和を達成しようとしたが、成功したとは言えない。ザメンホフの理想を実現させるためには、赤ん坊の時からエスペラント語で育って、エスペラント語が母語にならなくてはならない。

 母語は育ちや来歴と不可分である。育ちや来歴が共通した範囲内でしか、私たちはナショナリズムや郷土愛をもちえない。言い換えれば、私たちは言語が通じる狭い通用範囲でしかホンネの関係を築けない。(逆に、たとえば異国との国際親善はタテマエでしか実現できない。)

 この「通用範囲」とは、生き生きとした体験がナマで共有できる範囲でなくてはならず、テレビ電話などのコミュニケーション技術がいくら発達しても、この範囲を広げることはできない。

 飛躍するようだが、宇宙人が攻めてきたら地球人は、SF映画のように各国が協力することは原理的に不可能だろう。世界は個々人が言語や体験を共有できる範囲よりずっと広いからである。(この現象は、先日この欄で述べた「リアルに会わなければ真のコミュニケーションはできない」という主張と、実は同じことである。)