院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

語尾伸ばし言葉への批判と擁護

2013-05-16 04:44:02 | 日本語
 私が30代半ばのころ、朝日新聞・愛知県版からコラムを依頼された。

 何編か書いたが、中で「私はぁ、昨日ぉ・・」という語尾伸ばし言葉について書いたことがあった。当時、語尾伸ばし言葉は嫌がられていた。私は反対に、普通の方言は尊重するのに、若者言葉を否定するのはいかがか。若者言葉は時間的な方言である。それに対して普通の方言は空間的な方言であって、両者は別物ではない、と主張した。

 さらに、同じ集団内で同じような言葉を使うのは、人間には他の集団構成員と同じでありたいという欲望が本能的にあるからだ。そうすることによって初めて個人は集団の成員とみなされる。だから、若者がみな同じような語尾伸ばし言葉を使用しても、それはむしろ自然なことである、と述べた。

 このコラムは愛知県内でけっこう反響を呼んだ。愛知県版の投書欄に、若者言葉を嫌っていた人の反省の弁が載せられた。投書者いわく、「なんどきも私はぁと語尾伸ばす少女の頬を殴りたくなる」という短歌に共鳴していたが、コラムを読んで反省した、と。

 だが、白状すると、私も上の短歌には共鳴できる。コラムでは、理屈で考えるとそうなると言っただけで、本当は理屈と感情は常に乖離している。一例を出せば、「方言は美しいから尊重しよう」という呼びかけは理屈であって、感情的にもそう思っているかどうかは甚だ怪しいのである。

話し言葉の世代間継承

2013-05-15 00:45:06 | 日本語
 「私が?昨日?どこそこへ?行ったら?・・」と、いちいち語尾を上げて疑問形のように話す話し方が、あまりに謙譲が過多な感じがして耳障りだった。

 私が初めてこのような話し方に出会ったのは、ある病院の婦長さんの話し方だった。(今は看護婦ではなくて看護師と呼ぶから、婦長は師長に変わった。)最初は「なんて変わった話し方をする人なのだろう」と物珍しく思った。もう20年以上前のことである。

 その後、このような語尾揚げ言葉は瞬く間に全国に広まった。ついには私の親友までが、このような話し方をするようになった。私はこのような話し方が無反省に広がっていくのを恐れた。

 30年前、高校生が「私はぁ、昨日ぉ、どこそこへぇ」と語尾を伸ばす話し方をするようになった。この語尾上げ言葉が広まると、若い人たちが「えーと、あのぉ」と口ごもることがなくなった。「えーと、あのぉ」は私たちは禁止されていたが、その分、話しにくくて仕方がなかった。「えーと、あのぉ」が消えたのは、「私はぁ」と語尾を伸ばしている時間に考えることができるようになったからではないか、と当時思った。(「えーと、あのぉ」が禁止されたから出てきた話法かとも考えた。)

 その高校生が親になって、その子供たちがまた語尾伸ばし言葉をしゃべるようになった。話し方は世代間で継承されるのだなと思った。今は中年になった当時の高校生は、未だに「私はぁ・・」と言っている。

 ところが「私は?昨日?・・」という語尾揚げ言葉の方は、さいきんすっかりなりを潜めてきた。この話し方は世代間で継承されなかったのだ。

 一方は継承されて、一方は継承されない。この違いはどこにあるのだろうか?今のところ、その根拠が見いだせないでいる。

こころのケアなんて要らない!

2013-05-14 00:07:58 | 医療
 表題の言葉は東日本大震災の被災者の口から出たものである。

 被災者によれば、精神科医や臨床心理士が押し掛けてきて、根ほり葉ほり質問してくるので、うるさくて仕方がなかったらしい。いま直面している生活を立て直すのに大変なのに、カウンセリンなぞやっている場合ではないというわけだ。

 こうなることは、ほとんどの精神医療関係者には最初から分かっていた。「こころのケア」にまずもって必要なのは、治療者と依頼者の間に「お馴染さん」という関係があることだ。専門的な用語でいえば、ラポールが付いていることが必要だったのである。

 外科医は依頼者との間にさほど深い関係がなくても、手術を行うことはできる。(実際には、外科医と依頼者の間にもラポールが必要だが、ラポールがなくても手術をやってやれないことはない。)

 ところが「こころのケア」はラポールがないところでは絶対に不可能なのである。相手がいくら好意的なボランティアでも、誰が見ず知らずの人に心をあけすけに開くだろうか?邪魔にされるのがオチで実際にそうなった。

 「こころのケア」が万能であるかのように世に受け取られていることが、まず問題である。大衆がそのように感じてしまう方向に、精神医療関係者が振る舞ってきたことはなかったか?

 一昨日のNHKテレビニュースで報道していたが、このたびの中国の大震災に当たり、「こころのケア隊」が中国の被災地に行くのだという。

 その「隊」の頭目らしき兵庫教育大学のT教授という人が、「中国の人にもやっと、こころのケアの必要性が理解されてきた。これから駆けつける」と語っていた。

 なにを言っているのだ!「こころのケア」がそんなに簡単にできるわけがないことは、東日本大震災で証明済みではないか。(実は阪神淡路大震災ですでに証明済みなのだが。)まして中国人とは言葉の壁がある。そんな場所に何をしに行こうというのだ。

 教授という指導的な立場の人が、このようにセンチメンタルなことをテレビで言うから、善良な大衆は「こころのケア」に幻想的に過大な期待を抱いてしまうのだ。猛省を促がしたい。

ビラ配りに宣伝効果はあるか?

2013-05-13 00:10:05 | 社会
 サンドイッチマンという用語をご存じの方は、けっこう年配である。板に書いた広告を腹側と背側につけて繁華街を歩いていたから、この名がある。昭和30年代には広告版でサンドイッチにされたサンドイッチマンは減少し、代わりにプラカードを掲げた広告人が街を歩くようになったが、前からの流れで彼らもサンドイッチマンと呼ばれた。「街のサンドイッチマン」という歌がはやった。

 今ではサンドイッチマンは見られず、街の雑踏ではビラが配られている。ビラはもらわない人が多いので、ポケットティッシューに広告を付けて配ることもある。

 ただのビラにせよ、ポケットティッシューにせよ、広告の効果はあるのだろうか?もらっても、ちゃんと見ない人が多い。

 広告主は昔はサラ金が多かった。現在では、新規開店の居酒屋などがビラを配っている。私はビラをもらわないのに、なぜ居酒屋だと分かったのかというと、ビラ配りの人が居酒屋の名前が入ったハッピを着ていたからである。

 つまりビラよりもハッピのほうが宣伝効果があるということになる。ということは、ビラよりもプラカードのほうが認知度が高いということだ。なぜサンドイッチマンが復活しないのだろうか?

現地法人とは何か?

2013-05-12 01:05:55 | 経済
 私が経済に疎いことは、この欄で何度も表明してきた。だから、このたびの円高によって、なぜトヨタやマツダが大幅の増益になったのかが分からない。

 日本で日本人が作った車を輸出するならば、円高で収益があがることはなんとなく分かる。

 分からないのは、現地法人という存在である。アメリカにあるトヨタの現地法人は、トヨタの車をアメリカ人が作って、アメリカで売る。その場合、円高のメリットはあるのだろうか?全部ドル建てのはずだから、為替は関係ないのではないか?

 もうひとつ、日本のメーカーは安い人件費を求めて中国に押し掛けた。中国人の賃金が上がると、今度は東南アジアに工場を移そうとしている。

 ユニクロは中国で作った服を日本で売るから、人件費が安いほうがよいというのは分かるような気がする。だが、儲かるのは現地法人のはずである。なぜ日本のユニクロ本社が儲かるのだろうか?ロイヤリティーや商標権料みたいなものを取っているというなら分かるのだが。

 要するに私は、現地法人と日本にある本社の関係が分からないのである。経済に詳しい人にとっては、アホみたいな疑問かもしれないが、アホにも分かるように教えていただきたいものである。

育児休業を3年に延長

2013-05-11 00:28:46 | 教育
 安倍総理が「育児休業を3年間に延長」という方針を打ち出したけれども、名古屋市役所は私が勤めていた20年前から育休は3年だった。

 週休2日制も役所から始まった。役所が率先垂範するべきだというのが新制度導入の建前だった。まだ、インターネットが普及していないころのことで、民営化前の郵便局が土曜日に休業することになって、たいへん困った。

 役人が有給休暇をめいっぱい消化するのは、欧米並みである。当然、育休の3年もめいっぱい利用された。

 3年の育休をとっているうちに、また妊娠し、休業したまま次の育休に入る女性職員もいた。こうして3人くらい子どもを産むと、就職してから10年間、一度も出勤しないという女性職員が現れてきた。(育休と育休の間は、産休や有給休暇を充てた。)

 さすがにそれはおかしいと、名古屋市議会で一時問題になったが、立ち消えになった。

 私は、名古屋市職員という身分のまま10年間休むのがいけないと言いたいのではない。

 仕事というものは最初の5年10年が大切で、その時期に伸びるものである。医療職の役人すなわち保健師や看護師は最初の5年間でスキルを身に付ける。彼女らが、10年間育休を取ると、役所に戻ってきたときには何のスキルもないが免許証だけは持っている人になっていて、実戦の役に立たない。その上、30歳を過ぎてから修行を始めてももう遅いのだ。

 私が問題にしているのは、このようなことである。

「合歓の郷」の音楽

2013-05-10 00:10:39 | 音楽
 タダ券をもらったので逸見マリさんのディナーショウに行ったことがある。大ヒットした「やめて~」を、出し惜しみせずに最初に歌ったのは好感が持てた。

 5,6名からなるバックバンドを連れてきていたが、どこで拾ってきたのだろうか、その下手さに驚いた。学生バンド以下だった。

 ライブハウスに何度も行ったが、飲食が主で演奏が従なためか、上手いバンドがいない。どこを捜しても二流ばかりなのだ。

 名前が通った演奏家は上手いが、飲食しながらは聴けない。無名でも上手い演奏者がいるはずだ。

 捜しに捜してやっと見つけたのが鳥羽の「合歓の郷」だった。「合歓の郷」は100万坪の敷地に、レストランやクラブやホテルがある総合レジャー施設である。バブル期より前にヤマハが始めた他に類を見ない豪華施設だ。(その後、三井不動産に買収された。)

 ヤマハの伝説の社長、川上源一の声掛けで鳥羽の「合歓の郷」と静岡の「つま恋」が造られた。当時は誰が使用するのか疑問を覚えるような贅沢な施設で、利用料はものすごく高かった。

 正会員になるには昭和50年代で、200万円の入会金が必要だった。会員になれるのは、よほどの金持ちだった。(現在の制度や金額は知らない。)

 「合歓の郷」に一度は行ってみようと、個人の資格で行ったことがある。(会員でなくても、それなりの金額を支払えば利用することができた。)

 値段が高いし広いから、混んでいない。サービスは一流だった。

 そこでバンドの話に戻るが、敷地内に数か所ある飲食ができるクラブにはバンドが出ていた。そのバンドが、驚くほど上手いのである。

 演奏者は無名である。それでいて高い技術と芸術性をもっていた。コマーシャリズムに乗らず、ビッグネームではなくとも上手い演奏者はこんなところにいたのだと目を開かせられた。さすがに音楽のヤマハの経営だと感心した。

 著名な演奏者なら大ホールに聴衆を集めてコンサートを開くことができる。しかし、私が求めていたのは大ホールではなく、小さなクラブで一流の演奏を聴くことだった。「合歓の郷」は見事にそれを実現してくれた。

 そのときに私が学んだのは、「相応のお金を出さなくては、いい演奏は聴けない」という当たり前のことだった。

台湾小紀行(生活篇)

2013-05-09 01:27:55 | 文化
 日本人の海外旅行は名所旧跡を見て回る時期は終わって、その国の庶民の暮らしぶりや生活空間を見に行く段階に入っている。

 今回の台湾旅行で、私は台湾のそのような部分を見ようとした。だが、ガイドが付いていない旅行ではなかなか難しい面があった。

 台湾の庶民がどんな家に住んでいるのか、一見しただけでは分からなかった。とにかく平屋の一戸建てが少なかった。目立ったのはビルと長屋だった。ビルは相当古く、それが土地代が高くないと思われる場所に建っている。

 つまり平屋でも十分建てられるような辺鄙なところにビルがある。これらはマンションなのだろうか?庶民はこのような建物に住んでいるのだろうか?教えてくれる人がおらず、想像するしかなかった。

 台湾に農業地帯はあるのだろうか?私が鉄道やバスで通過した範囲には、広い畑がなかった。あっても、個人が自家用に使用する程度の小規模なものだった。

 中国大陸はタバコ天国だったが、台北ではタバコを吸っている人が少なかった。2009年に禁煙法が施行されて、室内での喫煙が禁止されたという。だが、家の中はプライベート空間である。そこでの喫煙にまでお上が指図できるものだろうか?

 ホテルやレストランは禁煙だった。そのかわり、入り口の前に灰皿が置いてある。そこは外だから喫煙はOKである。灰皿がないところでも、自家用灰皿をもって外で立って吸うならよいのだそうだ。ただし、そのまま歩いてはいけない。それは歩きタバコと見なされて1800円の過料をとられる。

 しかしながら、こうした法律は大都市でしか通用せず、台北以外の地域では歩きタバコやポイ捨てをよく見かけた。吸い殻を掃いている掃除の人がいた。日本で昔見た光景である。

 交差点で、信号で止まっている車に近づいて花を売っているお婆さんがいた。ぜんぜん売れていないように見えた。お婆さんは夜明け前にそのような商売をして、夜が明けたらいなくなってしまった。街での物売りは非合法なのだろうか?昼間に物売りを見かけることがなかった。

 台湾ではかなりの田舎にもコンビニがあった。セブンイレブンやファミリーマートである。そこでは、なんとおでんが売られていた。ただし、おでん単体ではなく、カップ麺のような麺が混じっていた。とてもおいしい。日本のインスタントラーメンが東南アジアで大人気だというが、うなづける。

 コンビニにせよレストランにせよ、客が入る施設は必ず冷房が利いていた。亜熱帯ゆえ、冷房は客への最低限のサービスなのだろう。列車もバスも冷房がないものはなかった。もちろんタクシーも冷房完備だった。日本の場合、台湾程度の発展段階の時代には車内冷房はまだなかった。

 街には音楽が少なかった。うるさくなくてよいと思った。だが、観光地やタクシーの車内では音楽が流れていた。楽曲は昔の日本の歌謡曲が目立った。春日八郎、都はるみ、加山雄三らのヒット曲を、台湾の歌手や楽団が演奏したものだった。レパートリーの古さに微笑した。

 観光地の屋台の食べ物は腹を壊すとイヤなので食べなかったが、台北で蜜豆のようなデザートがヒットしているというので行ってみた。夜9時過ぎだというのに、その店は道路まで若者でごったがえしていた。デザートには小豆のような豆と、寒天の代わりに白玉というかタピオカのようなものが入っていた。リンゴジュース程度の甘さで、蜜豆のようにこってりとした甘さではなかった。

 台湾の新高山は富士山よりも高い。もっと山深い田舎に行けば、私が3泊で見たものよりも、ずっと古い台湾の文化が見られたことだろう。そのような場所に行くには3泊では足りない。だが、もっと長く滞在したとしても、田舎には宿がないだろう。日本の旅行番組で台湾の田舎を取材したレポートを見かけないのは、主にそのような理由からではないだろうか?

台湾小紀行(食べ物篇)

2013-05-08 00:32:38 | 文化
 かねてから台湾は食べ物がおいしいと聞いていた。それを楽しみにしての台湾旅行だったが、アテが外れた。そりゃぁ高級料理店はおいしい。しかし、一般庶民が食べる食事がおいしいかどうかが問題なのだ。

 地元の人が行く観光地の食べ物屋に入った。昼時のことで満員だった。メニューの最初に「牛肉麺」と書いてある。なんだか分からないが、とにかく注文した。250円ほどで、台湾のメニューとしては安くはない。

 出てきたどんぶりにはコーヒー色をしたスープに米粉で作った麺が入っていた。スープは色の割に塩っぱくはなかった。麺にはよじれがなく、スープが絡まなかった。具として煮た牛肉のかけらが2つ乗っていた。そのため「牛肉麺」と呼ぶのだろう。

 ひどくまずくはなかったが、おいしくもなかった。麺はただの米粉で、味も素っ気もなかった。スープに香りがない。味も薄味で、おいしい味ではない。具の牛肉は柔らかく、わずかにそれだけがおいしかった。日本のラーメンや蕎麦がいかにおいしいかを改めて思った。

 ただ、観光地の「牛肉麺」だけで台湾の料理を代表させてはならないだろう。日本の祭りに出る屋台の焼きそばが、日本の料理を代表しているわけではないからだ。

 別に餃子のようなものも注文してみた。まずくはないが、あまり味がしない。エビがはいっているようだったが、エビの香りはしなかった。皮はまずまずといったところか。

 この店を初め、観光地の店はおいしいものを食べさせようという気持ちがないのではないか?店は吹きさらしで、何より汚い。テーブルは前の人がこぼした汁でべとべとである。

 幼少のころ、父親に連れられて浅草のストリップ小屋裏で食事をしたことがある。その店も吹きさらしだった。でも、出された焼きそばは大変おいしかった。テーブルもべとべとしていなかった。

 浅草の外れにバラックの店があって、店頭の大鍋にはモツやらなにやらが煮込まれていて、異臭を放っていた。日雇い労働者風の男が昼間から焼酎を呑んでいた。さすがの父親も、この大鍋には手を出そうとはしなかった。

 以上のことを思い出しながら、台湾の飯屋や屋台を見て歩いた。何かを焼いている屋台からは、猛烈な悪臭が漂ってきた。浅草の大鍋の異臭よりもずっと強烈だった。臭豆腐という看板があちこちにあった。これを焼いているのではないか?くさやの干物を焼いたのをしのぐ臭いだ。

 まったく同じ臭いが台北の夜市にも漂っていた。それ以外にも、繁華街のあちこちで、この臭いに遭遇することになった。関東人が少々臭くても納豆が好きなように、台湾人はこの臭いが好きなのだろうか?

 もう一つ台湾で苦になる匂いがあった。それは八角のような香りで、どうも香辛料らしく、多くの煮ものに使われていた。台湾の航空会社の機内食がすでにこの香りだった。私はこの香りが受け付けられず、それが入った料理は食べることができなかった。ホテルのバイキングで出た大根の煮つけにも微かにこの香料が含まれていた。何の香りなのか、フロントの台湾人に一生懸命に訊ねたが、ついに話が通じなかった。台湾人には当たり前すぎる香りで、取り立てて聞かれても答えられないほど意識にないのだろうか?

 瑞芳という町に立ち寄った。この街でも「くさや」の臭いや「八角」のような匂いがした。スーパーにはドリアンが置いてあって、皮を剥いていないのに悪臭がした。剥いたらすごい臭いだろう。

 この町に「美食街」という市場があったので入ってみた。2間間口の店々が並んでいるのは博多や金沢の市場と同じで、遠くチュニジアの市場とも同じだった。違うのは店の前に丸椅子が置いてあって、その場で食事ができることだった。店先には鶏や獣の内臓が無造作に吊るしてあった。浅草の大鍋のようなものがあって、何やら煮ていた。寿司屋の木製のウインドウには作り置きの寿司が並べてあった。寿司ネタはハムとか野菜とかその他わけの分からないものだった。

 日本やチュニジアの市場と違って、「美食街」には不潔感があった。そこで寿司を食べている人がいた。寿司には少しうるさい私は、本気かよと思った。自国の文化を他国に押し付けてはいけないのだろうが、せめて木製のウインドウに作り置きをするのはやめたらどうか。

 この臭いと不潔感はどうにも我慢ができなかった。台湾は食事がおいしいなぞと言ったのは誰なのか?もちろん台北の有名料理店には行列ができている。でも、その店の支店が東京や名古屋にあって、同じ味を楽しめる。飛行機を使ってわざわざ来る必要もないのだ。台湾は食べ物がおいしいというのは伝説に過ぎないことを知った。

 コメの飯の話をまだ書いていない。だが、コシヒカリやあきたこまちを食べている私たちが、台湾のコメのことを話しても誰も得をしないから、言わないほうがよいだろう。

台湾小紀行(物価篇)

2013-05-07 05:49:56 | 文化
 台湾の物価は安かった。日本の半額に届かない。今回の台湾旅行は、日本の旅行社に頼んでホテルと往復の飛行機だけ予約してもらった。3泊4日で8万3000円。この金額では国内旅行さえ難しいだろう。現地で使ったお金は2万円に満たなかった。

 ホテルは台北市内のシティーホテルに泊まった。1泊4000円くらいか。東京のちょっとしたビジネスホテルが12000円だから、割安感があった。地理的には台北の中心部で、きれいなホテルだった。バイキングだが朝食がうまかった。

 台北市内はタクシーで移動することが多かった。料金はちょっと足を延ばしても500円ほどで、2000円もかかる場所に行ったら台北を出てしまうだろう。タクシー料金は日本の3分の1くらいの感覚である。運転手の接客はまああんなものだろう。特別な免許がいるらしい。日本語ができて愉快な運転手もいた。

 電車やバスの料金は、距離で換算すると日本の半額くらいの感じだ。新幹線も同様だった。

 食事代も安く、屋台のラーメン程度なら一杯150円から250円だ。ちゃんとした店でショーロンポウやシウマイをたらふく食べて、紹興酒を浴びるほど飲んで3000円くらいである。

 占いや足裏マッサージの店があったが、これらは観光客相手で原材料費がかからないのに、それなりの金額を取る。そもそも、こうしたもの興味がないので行かなかった。

 今回呆れたのが日本人観光客だけをターゲットにしているフカヒレと伊勢海老とアワビを食べさせる店だった。どんな観光ガイドにも一流店のように書いてあるので行ってみた。入店するなり大きな音でロックがかかっているので、何だこれは?と思った。クラゲやキュウリ漬けの突き出しが、安食堂のような雑な盛り付けで、おいしくないのでイヤな予感がした。客は全員日本人だった。

 イヤな予感は的中した。フカヒレは小さなものばかりが出た。フカヒレは大きさが命なのだ。そのスープにはコクがない。伊勢海老に至っては、硬くて味がしないどころかカルキ臭い。まるで災害の救援物資のようだ。アワビはチリ産アワビとあったが、あれをアワビだというならイソギンチャクだってアワビだと言える。とにかく、なんの生物だか分からなかった。ほとんどを残してしまった。店の女給は「もう食べないのか?」とゼスチャーで言ったが、私は「早くひっこめろ!」と思いきり不愉快な態度で応えた。

 酒代別で5000円以上取られた。まったく日本人観光客をカモにした詐欺である。舌が肥えた日本人なら口コミでぱーっと悪評が広まってしまうはずだが、そのような情報はなかった。店の主人夫婦は豪華なロレックスの腕時計を着けていた。荒稼ぎをしているのだろう。楽しかった今回の台湾旅行の唯一の汚点だった。

 酒場があったら、どのようなものか見てみたかったが、日本のバーや居酒屋に当たる店は見かけなかった。現地の人は酒をあまり飲まないように感じた。

 酒場や風俗店がないはずがない。たぶん、それらは1か所に集まっているのだろう。今回の旅行ではそのような場所に当たらなかっただけだと思う。30年前に先輩が男2人で昆虫採集に台湾を訪れた。そのとき、男2人だったからいけなかったのだろう、行く先々で女を押し付けられて困ったという。

 レストランに行けば「あの娘はどうだ?」と美人のウエイトレスを指して店員が薦める。ホテルに居ればやり手婆がわざわざ部屋まで女の注文を取りに来る。うるさくて仕方がなかったそうだ。エイズなんて、まだ名称さえなかった時代である。当時の台湾は貧しかったのだろう。

 今の台湾の若い女の子は、服装もちゃんとしていて、それなりにおしゃれをしている。だが、観光で来た日本人のギャルのほうがきれいに見えた。顔つきは台湾人は日本人と区別がつかないのに、である。日本の女の子のほうがアカ抜けているのだ。服装や化粧に微妙な違いがあるのだろうか?

 いや、話がそれてしまった。台湾の物価は商品の内容が日本と似ている分だけ安く感じた。3年前に行ったカンボジアも安かったが、料理もホテルの構造も日本とは全然違うためか、カンボジアには台湾ほどの割安感はなかったと記憶する。

台湾小紀行(交通篇)

2013-05-06 21:42:37 | 文化
 台湾を旅行するなら台北市内観光なぞというメジャーなことをするのではなく、外国人観光客がまず行かないであろう場所を見に行くことにした。

 台湾の鉄道は台湾の海沿いを一周している。列車には必ずトイレがついていた。環状線だから、どこが終点ということがなく、かなり長距離を走る列車があるからだろう。列車のトイレだけではないが、拭いた紙は流してはならず、近くの屑入れに入れなければならないのが(5年前に行った)チュニジアと同じで抵抗があった。しかし、水流はチュニジアよりも勢いがあり、ホースで流す必要はなかった。

 山手線に対する中央線のような台湾を横断する鉄道はない。わずかに台北近くから内陸へ延びる袋小路のような鉄道が数本ある。鉄道以外で内陸に行こうとするとバスしかないのかも知れないが、詳しくは分からない。

 その内陸へ行く鉄道に乗った。単線だが車両は日本のローカル線のようには古くはなく、また一両だけの編成という列車はなく、必ず複数両が繋がっていた。

 車両はいつごろ更新されたのだろうか?古色蒼然たる車両はなかった。逆に花柄で派手すぎる車両があった。駅も新しく改築されているところが多く、日本の無人駅のようなさびしい駅はなかった。

 列車の本数は日本のローカル線と同じくらいだが、乗っている客の数が違う。満員電車並みなのだ。なぜ、そんなに満員なのかというと、私が乗った列車はどうも地元の人が行く観光地への列車だったからだ。その日が土曜日日曜日ということもあったかもしれない。

 行先には古い寺や天然の滝があった。寺も滝も取り立てて見事というわけではなかった。ただ、その近辺では土産物屋がたくさん軒を連ね、おびただしい数の屋台が出ていた。どうも地元の人は寺や滝が目的なのではなく、屋台とそれに群がる雑踏自体を楽しみに行っているように思えた。(台北では毎晩、夜市が開かれていて、その雑踏は台北名物である。)

 屋台ではお菓子のようなもの、ソーセージのようなもの、饅頭のようなもの、あるいは虫よけ薬のようなものを売っていた。辺り一帯に独特の香辛料(それはかえって私の食欲を失わせた)の匂いが漂っていて、とても買う気は起らなかった。

 車はそこそこ普及しているようだった。道路も整備されていて、未舗装道路は見かけなかった。ただし、昔の日本と同じで駐車場がなく路上駐車が当たり前で、運転が荒っぽかった。車はほとんどが旧式のトヨタの車。ニッサンが少し。一台だけ見たBMW以外に日本製でない車はなかった。

 バスにも乗ったが、これがびっくりするような豪華なバスで、カーテン付きで照明も凝っていた。上に述べたように列車の車両もバスもオンボロなのは見られず、遠くない過去に一斉に更新されたのではないか。

 食事は屋台の後ろにある店で食べた。そこでは麺類やご飯ものや野菜炒めのようなものを商っていて、私は「牛肉麺」という麺類を食べたが、その話は「食べ物篇」に譲る。

 車の運転や駐車は昔の日本のようだったが、公営交通の車内でのマナーは普通だった。車内で乳繰り合っているカップルがいた。立っている人がいるのに荷物を座席に置いている奴、車内で髪をとかしている若い女がいた。日本と同じだと思った。赤ちゃん連れの女性に席を譲っている人もいた。これもまた日本と同じである。

 台湾には日本製の新幹線が走っている。在来線で桃園という駅まで出て新幹線に乗り換えようとしたら、在来線の桃園駅と新幹線の桃園駅は別であると分かってあわてた。日本の在来線と新幹線では「横浜」と「新横浜」というように一応別の名称がついている。桃園駅もそのようにするべきだろう。

インターネットは便所の落書き

2013-05-03 00:07:43 | コンピュータ
 患者さんに医学的な説明をしているときに、ネットには違うことが書いてあったと言われ、ムッとすることが多々あった。あなたは目の前の専門家が言うことよりもネットに書いてあることを信じるのですか?ネットとは誰でも何でも書き込むことができる、言ってみれば便所の落書きと同じなんですよ、という気持ちだった。

 ネットの書き込みと便所の落書きが違うところは、ネットは活字になっているという点である。活字で書かれていると、なんとなく信じてしまうものだ。だから、私が口で言うよりもネットの活字に信憑性を感じてしまうのは分からぬではなかった。

 ところが最近、ネットにはこう書いてあったと話す患者さんが激減した。それだけネットが普及し日常的なものになったため、ネットには間違いや悪意が存在していることを利用者がようやく理解したのだろう。

 私が感じた不快さは、ネットが十分に行きわたるまでの過渡的な現象だったようだ。最近はムッとしないで済んでいる。

 ところでこのブログだが、私は一生懸命に書いているのだが、間違った情報を書いてしまうことが必ずあるだろう。ネットに慣れた読者なら、テキトーに読み飛ばしてくださると思う。もし親切心があれば、コメント欄で訂正していただきたい。これまでの7年間で、そうしてくださったありがたい読者が何人もいらっしゃった。

追記:
 この連休に旅行に出ますので、このブログは3日間お休みします。

北朝鮮報道終わる

2013-05-02 03:10:21 | マスコミ
 昨日の5月1日から北朝鮮の激しい発言に関する報道が、ピタッとなくなったとは思われないだろうか?

 それは北朝鮮が激しい発言をやめたからで、なぜやめたかというと、米韓合同演習が4月30日で終わったからである。

 わがマスコミは、米韓の合同海上演習が終わっても、地上演習が続いていることをほとんど報道しなかった。だから、視聴者には北朝鮮が勝手に騒いでいるように見えたのだ。

 マスコミはそれを「挑発」と呼んで、北朝鮮がどうしようもない極悪国家のように見せた。

 北朝鮮としては米韓合同演習こそ「挑発」と位置付け、激しく抗議せざるをえなかった。でも、それは口だけで、平壌は平静だったし、世界マラソンも行われた。とても戦争に備えている国の振る舞いではなかった。

 つまり、米韓合同演習と北朝鮮の強い挑発的言動は、言わば出来レースだったのだ。

 にもかかわらず、マスコミに登場した評論家たちは「北朝鮮のミサイルがいつ発射されてもおかしくない。戦争になるかは予断を許さない」なぞと発言していた。彼らは、これが出来レースであることが本当に分からなかったのだろうか?分かっていながら、マスコミの世論操作に加担したのだろうか?

 私は4月11日のこの欄で、「地上訓練が終わったら、北朝鮮は挑発的な言動をやめるだろう」と書いた。これは自慢できるようなことではなく、注意深く報道を見ていれば必然的に分かってしまうことである。

 今回の騒動で明らかになったのは、わがマスコミは米韓の味方だということである。というか、反北朝鮮だということである。

 今回は反北朝鮮でまとまったマスコミだが、反中国、親中国、反韓国、親韓国ではどう転ぶか分からない。

 1983年、フィリピンのマニラ空港でベニグノ・アキノ氏が暗殺されたとき、わがマスコミは現政権のマルコス側に付くべきか、反政権のアキノ側に付くべきか迷っていた。数日間、どちらが正義なのかわからないような不格好に狼狽した報道が続いた。

 この事件から明らかになったのは、マスコミは勝ち馬に乗るということだった。

メガソーラーを疑う

2013-05-01 00:03:30 | 環境
 メガソーラーに疑問をもつ以前に、私はソーラーパネルそのものに疑問をもっている。

 一部で昔からささやかれてきたことだが、ソーラーパネルは自分自身が作られるのに消費された以上のエネルギーを生産できるのだろうか?

 できるならできるで積算根拠を示してほしい。なぜかそのような根拠が発表されない。それでいて、10年で元が取れるとか、クリーンエネルギーだとか、企業のキャッチコピーのようなものだけが独り歩きをしている。

 仮にソーラーパネルがそれ自身を作るのに要した以上のエネルギーを産出できるとしても、その計算はパネルに積もり続ける「埃」を無視しているのではないだろうか?

 「埃」には煤煙や土ぼこりや黄砂などがある。車を大事にする人なら、2,3日でどれだけの「埃」が車体に着くかよくご存じだろう。これらの「埃」は、丁寧に拭き取らないと車はピカピカではおれない。ソーラーパネルを誰が拭くのだろうか?

 車ほどにはピカピカでないソーラーパネルは、相当に発電効率が下がるだろう。10年で元が取れるという話は、10年間パネルを磨き続けることを前提としているのではあるまいか?

(ソーラーパネルが自分自身を作るエネルギー以下しか発電できなくても、存在価値はある。例えば砂漠の隊商がラクダに積んで電池代わりに用いるような場合である。)

 そこでメガソーラーだが、現在、空き地さえあればメガソーラーが作られ続けている。あれだけの面積をどうやって拭くのだろうか?メガソーラーは資金を募集して、ファンドを売り出している。10年で元が取れたら、それ以上の分を配当するというのだ。

 「売電」はすでにドイツで失敗している。失敗の前例がある商品を誰が買うのだろうか?でも、メガソーラーが次々と建設されているところを見ると、ファンドは売れているのだろう。

 ファンドの購入者が10年後に泣きを見ても、私は知らないから。