Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

手帳

2008年11月18日 | 家・わたくしごと
 手帳を持つというのはかつて大人になったステイタスだったような気がしていたが、今や、小学生から手帳を持つ時代になった。先日、東京に出かけたとき、電車の中で話をしているランドセルを持った小学生が、互いにかわいい手帳に予定を書き込んでいたのを見たとき、なんだか不思議な気がした。小学生で手帳を持つなんていう発想は私の時代にはなかった。
 現在、私は手帳を持っているし、なるべく研究室に持っていき、帰りにはカバンに入れてもって帰るようにしている。といっても家で手帳を見ることはまずないが、なんとなく体といっしょに移動していないと不安にかられるからだ。もう20年も前の話だが、手帳を持つようになったとき、手帳に予定を書き込んでいくのが楽しくてしかたなかった。当時は、父からもらった分厚いシステム手帳を持ち歩き、そこに予定を書き込み、そんな文字で一月の頁が黒く塗りつぶされていくことが生きている証であり、喜びでもあった。今考えてみると、妙に自虐的である。
 今は、予定を見てはため息をつき、白のスペースが多い頁を開くことで安堵をする生活に変わった。なるべく書き込みたくない。時には「あえて書き込まない」という行い、つまりは「予定を忘れるための確信犯的行為」までやる始末である。ただし、罪悪感からか、そういう予定だけは手帳に書かれていないにもかかわらず最後まで忘れないものだ。
 正直、持ち歩いてはいるものの、手帳を持つのがすっかり嫌いになっている。そんな手帳を少しでも明るく感じるために、数年前から「かわいい手帳」を持つことにした。よく女性が群がっている手帳コーナーに売られているものである。不思議なもので、味気のないシステム手帳からこの軽く、かわいらしい手帳を持つようになってから、以前ほどひどい手帳嫌悪症にはならなくなった。かわいいものを持つというのは、精神的にもいいことなのだろう。しかし、ただ一つ悩ましいのは、外部の偉い教授先生方が集まる会議や研究会などで、「それでは皆さん次の日程を決めましょう」なんてとき手帳を取り出すのに、やはり一瞬のためらいを感じることだ。といいながらも、「君、かわいい手帳を持ってるんだねえ」なんて隣の先生にいわれると、嬉しかったりする自分がいる。