貝の火/作・宮沢賢治 脚本・川崎大治 画・久保雅勇/童心社/1966年
宮沢賢治の作品が、時代状況を反映した部分がカットされるなど、紙芝居向けにだいぶ短くなっています。
水に溺れかかったヒバリの子を助けた子ウサギのホモイでしたが、力を使ってひどい病気になり、すずらんの青い実をつけるまで おきあがれませんでした。
ようやく病気が治って外に出てみると、お母さんヒバリが「貝の火」という宝物を受け取るようにと差し出しました。
おとうさんは、ホモイが持ち帰った貝の火を見ると、「ちゃんと 一生 持っていられたものは、鳥にふたり、魚にひとり あっただけ」と話し、光をなくさないようにいいます。
おかあさんも、いじわるなんかすると 光がくもってしまうとおしえてくれます。
つぎの日の朝、野原で馬とリスと、キツネに会います。キツネは「あなたは、わたしたちの 王さまです。あなたのためなら、どんなことでもします。ちょっとそのへんへいって トウモロコシでも 盗んで まいりましょうか」といいますが、ホモイは、そんなことしてはいかんよと、とめました。
つぎの日、キツネはホモイにパンをひと切れ(天国の てんぷら)くれました。うまかったので もうひとつくれるよういうと、キツネは二つくれますが、これがキツネのたくらみ。ニワトリを とっても しかっちゃ いけませんよと、ホモイに約束させます。パンを家に持ち帰ったホモイでしたが、おとうさんは 台所から盗んできたものだぞと、足でめちゃくちゃに 踏みつぶしてしまいます。おかさんは、貝の火は きっと くもっているよと いいますが、たまは それはそれはうつくしく もえて 光っていました。
つぎの日、キツネが モグラの親子をいじめていましたが、ホモイが助けることはありませんでした。貝の火をだしてみると うつくしく 燃えていました。ホモイは「ぼくは うまれつき、貝の火とは はなれないように できているんだよ。ぼくが なにしたって 貝の火は だめになったり しっこないんだ」と思います。
つぎの日は、キツネが大きな網をかけ、大勢の鳥などを捕まえ動物園をやろうと、ホモイに持ち掛けます。網には、カケスト、ウグイス、ベニスズメ、ヒワがかかって バタバタしていました。鳥たちから助けてくれるよういわれて、網に近づこうとすると、キツネは、網に手をかけたら食い殺すぞと 脅します。こわくなったホモイの 知らせを聞いて おかあさんは 走ってきてキツネを追い払うと、鳥たちを網から はずして やりました。
お父さんは、鳥たちを どうして助けなかったのだ、なぜ キツネとたたかわなかったのだと ホモイにいいます。貝の火をとりだすと、ただの 白い 石になっていました。そして 貝の火は カチッと なって ふたつにわれ、こなごなになって そのこなが ホモイの目に入って ホモイの目がみえなくなってしまいます。それから くだけたかけらが くみあわさって すっかり もとの 貝の火になり、音を立てて 窓から 外に飛んで行ってしまいます。
おとうさんは、ホモイの 背中を しずかに たたいて いいました。「どうして 玉が いってしまったのか いまはよく わかったろう それをわかった おまえは いちばん しあわせなのだ。目は きっと よくなる」
まるで貝の火という宝珠が、ホモイを試しているかのよう。まわりから褒められ、いつしかおごり高ぶってしまったホモイの心をあざわらうかのように、速く美しく燃える玉。
目は、奢りや慢心がなくなれば見えるようになるのでしょう。
おとうさんの「おまえは いちばん しあわせなのだ。」と言う境地に、たどりつけないのが 凡人の悲しいところ。
原作の「たった六日だったな。」とフクロウが あざ笑うところを 生かせなかったのが残念。