先日の千畑ツアーで本堂城回湧水群に寄り道してしまいましたが、次の目的地は本堂城址。払田柵跡の北東にあります。今まで城巡りのお客様だけでなく、ここに縁のある方なども当YHに来られて、話をしたことはありましたが、千屋断層と同様、知ってはいたのですが、来ることはありませんでした。
本堂城回湧水群からすぐの場所にありました。一応、ここからも縄文の土器や平安時代の住居跡が発掘されている遺跡なのですが、その後本堂城が同じ場所に出来たことで、そちらが有名になり、縄文、平安の遺跡部分の看板等はなにもありませんでした。
ここの城主だった本堂氏は、鎌倉時代に和賀郡(岩手県)に土着し、南北朝時代の観応年間(1350頃)に現在の仙北郡に進出した氏族とのこと。戦国時代にこの地域は、戸沢氏(角館)、安東氏(秋田)、小野寺氏(横手)が勢力争いをしており、本堂氏は当初はここより東の真昼川上流、浪花字館ノ沢に山城(元本堂城)を本拠地としていました。
天文年間(1540年前後)の戦国時代後半にはこの地域を支配する小大名となり、山城から現在の場所に本拠地を移したとみられている。その後本堂氏は豊臣秀吉の小田原征伐や朝鮮出兵にも参加したが、関ヶ原の戦いでは徳川方について、戦後常陸に領地替えとなり、その子孫は江戸幕府の旗本として存続、幕末の戊辰戦争では新政府側について、後に男爵を授けられたという。
本堂城址はかなり広い草原となっており、内堀のように内館跡を囲むように水田があります。内館跡の北側には石碑や鹿島様などもあるようでしたが、そこまでの間もかなり背の高い雑草地となっており、入口にて今回はUターンとなりました。このところ訪ね歩いている古代の遺跡跡と違って、かなり具体的な形状が残る遺跡ですが、最終的には、ここでそうした暮らしが営まれていたんだと、妄想することになりますので、想像力豊かでないと、行っても面白くないかもしれません。
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