奥州市埋蔵文化財調査センターを見学後、隣接地にある胆沢城址を見学。現在は南にあったとされる多賀城から続く官道から分岐した幅12mの南大路と政庁を中心に配置された官衙(役所)を築地土塀と溝が方形に囲む一辺675mの広大な施設の内、外郭南門や外壁の一部が復元され、公園となっていました。
肝心の政庁のあったと思われる場所は埋め戻され、田畑や荒れ地になっており、見に行っても何もありませんでした。広大な城址のはずですが、見られる形として残されているのは、この外郭南門の周辺のごくわずかな場所だけですので、ついこの場所だけ見る形になりそうですが、ほんの一部だけで、当時広大な城であったという形跡はあまり感じられないかもしれません。
この胆沢城が作られたのは802年(延暦21)、平安遷都(794)が行われてすぐの頃。それまでは国府がおかれた多賀城(724年創建)が鎮守府も兼ねていたが、この地域で「38年戦争」と呼ばれる律令政府による蝦夷領地の侵略戦争の中で、阿弖流為(アテルイ)などの蝦夷の族長が本拠地としていたこの地で、軍事拠点として、また柵戸(関東などから移住させられた民)を住まわせて律令政府の領地とすべく築かれたもの。胆沢城の出現により、阿弖流為は投降したとも考えられている。
=律令国家の蝦夷征討=
この背景には、大化改新(645年)によって生まれた律令政府がそれまでの独立支配者的な国造制による地方支配から評(こおり)制による中央集権体制へ移行させることとしたことに端を発する。国造制での支配は日本海側は新潟(越国)まで、太平洋側では宮城県南部(道奥国)までで、その北の住民を一括して「蝦夷」と呼んでいた。この地域の支配を強化するための政策が「柵」の設置であった。
最初の柵は647年の淳足柵(新潟市)、648年の磐舟柵(村上市)であった。記録には残っていないが、近年の調査で同じ頃に太平洋側でも郡山柵(仙台市)が設置されたことが明らかになってきた。
更に支配地域の拡大のため、658年(斉明天皇4)には阿部比羅夫の北方遠征が行われたとみられる。こうした急速な変化は、一方で反発を招き、8世紀に入ると散発的に反乱がおきた。特に、720年(養老4)陸奥国の蝦夷が反乱を起こして都からの官吏らを殺害した。この際郡山柵に代わってできたのが多賀城(724創建)である。
ちなみに秋田市にある秋田(高清水)城跡は733年(天平5)に創設されたが、これは709年(和銅2)以前に造られた(第一次)出羽柵(城輪柵とも・酒田市)から領地を北上させたものと考えらており、第二次出羽柵とも呼ばれる。
多賀城創設後も足元を固めるために、牡鹿柵(737・東松島市?)、玉造柵(737)、新田柵(737)、色麻柵(737)などを築いた。多賀城を含めて天平五柵と呼ばれる。更に律令政府は領土拡大を進め、太平洋沿岸では桃生城(759・石巻)を、北上川沿いでは伊治城(767・栗原市)を創設。
積極的な領地拡大に蝦夷との摩擦が大きくなり、774年(宝亀5)に桃生城が襲撃された。これが38年戦争の始まりで、反撃を計画したものの俘囚(律令側に従う蝦夷)の族長の寝返り(伊治呰麻呂の乱)などもあって蝦夷側が優勢となった。
これに対して律令政府は桓武天皇の号令下、数度の征討軍を派遣した。789年(延暦8年)の第一次征討では阿弖流為(アテルイ)らの猛攻に敗れ、801年(延暦20)の第三次征討では、征夷大将軍に坂上田村麻呂が任じられ、この戦いの中で造られたのが胆沢城であり、この戦いで阿弖流為は投降した。胆沢城周辺には関東などから4000人を柵戸として移住させ、その後10世紀まで胆沢、志波地方の支配拠点として胆沢城は機能した。
律令政府の領地拡大は、翌803年(延暦23)には志波城(盛岡市)、払田柵(大仙市、801頃か?)の造営を行い、第四次征討を計画した。
ただこれらの領地拡大策などもあり、全国的な世情不安が続いたこともあり、805年(延暦24)に桓武天皇は「徳政相論」を出し、軍事(征討)と造作(造都)を中止することとしたため、第四次征討は行われなかった。
直後に、志波城周辺に和我(和賀)、稗縫(稗貫)、志波(斯波)の三郡を設置したが、この地域の安定化のため、811年(弘仁2)に文屋綿麻呂を征夷将軍としてその北方の蝦夷を攻撃した。この戦いで38年戦争が終結し、律令政府による蝦夷征討も終焉を迎えた。
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