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2005年3月1日に秋田県大仙市にオープンした大曲ユースホステルのペアレント(経営者)が日々の出来事を送ります。

胆沢ツアー ⑦鳥海柵・平安末期(1050年頃)

2024-11-04 22:16:46 | 秋田古代史

先日の胆沢ツアーでは角塚古墳を見て、そのまま国道397号で東成瀬村に抜けようと思いましたが、日没まで少し時間があったことと、せっかく奥州市まで来て、一か所残すのはなんだし、次にいつ来られるかわからないので、国道4号まで戻る形で走り、奥州市と金ヶ崎町の境にある鳥海(とのみ)柵の見学をしました。

以前、温泉巡りで脇を通ることはありましたが、立ち寄るのは初めて。ここは「柵」となっていますが、大仙市にある払田柵やこの前に見た胆沢城(柵)といった奈良・平安時代に律令政府が蝦夷対策として構築した柵とは異なり、平安後期に奥六郡(概ね今の岩手県)を実質支配していた蝦夷の一族、安倍氏が作った北上川流域12柵の一つ。

国道4号から入ってすぐのところに門があり、その場所は学校でもあったかの開けた場所で駐車場もありました。あとで調べたら、繊維工場とやはり小学校があったとのこと。ただ、その痕跡はほとんど見られず、入り口近くに案内看板があるだけでした。これによると東北道の側道奥にもう一つ案内看板があるということなのでそちらに向かいました。側道に入ってすぐから車1台分あるかどうかの農道。案内看板近くに車を方向転換できる場所があるかどうか心配でした。案内看板近くに車1台分ほどのスペースがあり、切り返しOK。ここに車を止めて、先ほど見た広場から大きな谷の反対側、畑のあぜ道の奥に鳥海柵跡の看板がありました。本来ならここから胆沢城が見えるのでしょうが、木が邪魔になり見えず。

日没近かったので、これで鳥海柵の見学は終了となりました。ここも背景を知らないと何もない場所状態でした。

=安倍一族と前九年の戦い=

安倍氏が在地官人(国司が採用した現地役人)として、胆沢城を本拠地としていたため、すぐ近くにあった鳥海柵は安倍一族にとって重要拠点であったとみられます。この柵の主は安倍氏当主頼良(頼時)の三男、安倍宗任とされ、宗任は別名鳥海三郎と呼ばれていた。

先の胆沢城で書いた38年戦争の終結以降、律令政府の武力による蝦夷の制圧は、中央(京都)から派遣する部隊から、現地の勢力を利用することに方針転換され、蝦夷の中から在地官人になったりする「豪族」が現れるようになった。ここ奥六郡を本拠とした安倍氏と、仙北(秋田)を本拠とする清原氏であったという(諸説あり)。

安倍氏は奥六郡で一族による支配を強め、領地拡大(衣川方面)や徴税義務の不履行といった中央政府に反抗する態度を強めた。1050年(永承5)に陸奥国司だった藤原登任と鬼切部(現鳴子町鬼首か?)で戦いとなり、安倍氏が勝利した。

これを受けて中央政府は翌1051年陸奥守(国司)に源頼義が任じられ、一時は戦いが収まったものの、1056年(天喜4)、婚姻関係のもつれから阿久利川付近で戦いになった。安倍頼時(頼良)の反乱と断じた中央政府は源頼義に安倍氏追討の命を出し、調略や裏切りなどで鳥海柵で頼時戦死。子の安倍貞任は征討軍を黄海(岩手県一関市藤沢村)の戦いで破った。

これに対して政治的に孤立した源頼義は、仙北を本拠としていた地方豪族、清原氏に助けを求め、1062年(康平5)に清原氏による一万余りの援軍が出陣、小松柵から衣川関、鳥海柵、黒沢尻(北上市)柵と安倍氏の拠点を次々と攻め落とし、最後の拠点であった厨川(盛岡市)柵の陥落で貞任が戦死し、(前九年の)戦いが集結。

この戦いにより、源頼義、義家(頼義の子)が冠位を与えられ、清原武則も俘囚(蝦夷)の族長にもかかわらず冠位が授けられ、鎮守府将軍に任じられた。一方安倍宗任ほかの安倍氏生き残りは伊予や大宰府へ流刑となり、安倍氏滅亡に至った。

こうして前九年の戦いは、1051年源頼義の奥州赴任から1062年安倍氏滅亡の12年を指すが、前九年の役と呼ばれるのは、頼義の本格参戦(1053年の鎮守府将軍任命)から9年で終結となったことによる(諸説あり)。また安倍晋三元首相は、この安倍宗任が先祖として、墓参(福岡県宗像市大島)を行っている。

のち


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