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市課長、職員の子の入園決定 「特別扱い」訴訟に発展

2018年01月21日 23時53分01秒 | 事故事件訴訟
市課長、職員の子の入園決定 「特別扱い」訴訟に発展
2018年1月19日 (金)配信朝日新聞

 東京都多摩市の子育て支援課長(当時)が2014年、市内の認可保育園長に市職員の子の入園を要請し、定員を理由にいったん断られながらも最終的に入園させた。この経緯をめぐり、同課の課員(同)が「身内」を特別扱いするものだとして市長を提訴する事態になっている。市は「職員だから優先したわけではない」としている。
 市は16年に、元課員からの指摘を受け、経緯を検証している。検証結果の文書などによると、課長は14年11月に園長に電話をし、生後間もない職員の子の入園を求めた。園長は、市の補助金を受給するための基準となる定員を超えることを理由に拒否した。しかし、再び電話でやりとりをしたのち、課長が入園を決めた。
 同市では、園の面積から定員を定め、その範囲内であれば支給される補助金がある。市によると、この保育園は、職員の子を受け入れると面積が1・6平方メートル不足する状況だった。課長は、こうした状況を十分確認しないまま補助金を4カ月間(計約456万円)支出し続けたとして、16年9月に戒告処分を受けた。
 市の説明によると、入園を求めた子の両親はともに多摩市職員。母親が出産後に重い病気になったことを父親が上司に伝え、上司が子育て支援課長に相談に行ったという。通常、一般市民は窓口を訪れて相談する。母親はその後、亡くなった。
 元課員は訴訟で、補助金の返還を園に求めるよう、市長に請求している。18日、元課員と市の双方が記者会見した。
 元課員はかつて入園審査を担当し、入園できなかった親に泣かれたり、怒鳴られたりした経験もあるという。「今回と同じように母親が重篤な病気の状況で、父親に入園を待ってもらったことがある。同じような方がいるなかで、市職員だけを優遇するのは非常に恣意(しい)的だ」と訴えた。
 一方で市は、一連の判断は「緊急性・必要性を鑑みて『緊急入所』という処置をとったもの」とし、園に対する課長の行動も「特別扱いしたものではない」としている。裁判では訴えの却下を求めている。(岩崎生之助、武井宏之、仲村和代)
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生後2カ月 手術後に障害 「県立病院に過失」提訴 坂井の家族 1.4億円賠償求め

2018年01月21日 22時41分36秒 | 事故事件訴訟
生後2カ月 手術後に障害 「県立病院に過失」提訴 坂井の家族 1.4億円賠償求め
2018年1月19日 (金)配信福井新聞

 生後2カ月の長女が県立病院で受けた手術で、薬剤投与や術後の管理に過失があり重い後遺障害を負ったとして、坂井市の20代両親らが18日までに、県に約1億4300万円の損害賠償を求めて福井地裁に提訴した。
 原告は両親と長女の3人。訴状によると、長女は2016年に生まれ、2カ月後に左鼠径(そけい)ヘルニアを治す手術を受けた。病室に戻って50分後、顔色が悪いことに父親が気付き看護師を呼んだが、一時心肺停止に陥った。最終的に後遺障害等級1級相当の呼吸器機能障害を負った。
 原告側は▽手術で麻酔医が筋弛緩(しかん)剤を過量投与した▽動脈の酸素飽和度などを測る指に付けるモニターを術後に装着しないまま放置した―などと主張。「適正に行われていれば心肺停止やその後の低酸素脳症は発生せず、障害を回避できた可能性は高い」としている。これまでの交渉で病院側からは「当院に過失はない」と回答があった。
 県立病院は取材に対し「係争中のためコメントは差し控えたい」としている。
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「帝王切開せず後遺症」 夫婦が松江市に賠償請求

2018年01月21日 22時17分00秒 | 事故事件訴訟
「帝王切開せず後遺症」 夫婦が松江市に賠償請求
事故・訴訟 2018年1月19日 (金)配信共同通信社

 松江市立病院が出産時に帝王切開を行わなかったため、長女が重い後遺症を負ったとして、関西在住の40代の夫婦が慰謝料など約6100万円の損害賠償を同市に求める訴えを松江地裁に起こしたことが19日、分かった。提訴は昨年11月29日付。
 訴状によると、妻は松江市に里帰りして2012年3月に長女を出産。その際に吸引分娩(ぶんべん)に時間がかかったため、帝王切開を行う必要があったが、同病院の医師らが適切な処置を取らなかったとしている。
 長女は重度の新生児仮死の状態で生まれ、低酸素状態によって脳性まひの後遺症を負ったという。14年に呼吸不全で死亡している。
 市立病院の担当者は「コメントは差し控える」としている。

婆も初孫が難産で脳性まひを起こし、3カ月で亡くなったよ。
昔からお産は母子ともに命がけって言ってたけど、
今は先生も大変だね。
二番目は最初から帝王切開になったです。
子が死んでから高額貰ったって浮かばれないと思うよ
それも、市立だから、税金か、病院の負担か、
いずれにしても、公金だよね。
婆はナースだから、医療現場の、事故の、未然に防げない状況も分かるしね。

ギボウシの花の咲くころなくなったよ

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昨年の自殺者2万1140人、8年連続減 未成年は増加

2018年01月21日 12時18分28秒 | 自殺・過重労働
昨年の自殺者2万1140人、8年連続減 未成年は増加
2018年1月19日 (金)配信朝日新聞

 昨年1年間に自殺した人は2万1140人(速報値)で、前年より757人(3・5%)減ったことが19日、警察庁の統計で分かった。減少は8年連続となる。ただ、厚生労働省の昨年1~11月の自殺者の分析では、年齢別で唯一、未成年の自殺は増えている。
 自殺者数は1998年から14年連続で3万人を超えたが、10年以降は減り続けている。昨年はピークだった03年(3万4427人)の6割ほどだ。男女別では、男性が1万4693人で7割を占めた。
 人口10万人あたりの自殺者数は前年より0・6人少ない16・7人で、統計を始めた1978年以降で最少だった。都道府県別では秋田が24・2人で最も多く、青森22・1人、山梨21・9人が続いた。
 一方、厚労省が昨年1~11月に自殺した1万9754人を分析したところ、年代別では40~49歳が3416人で最多だった。続いて50~59歳の3282人、60~69歳の3083人だった。前年同期より20歳以上は全年代で減ったが、19歳以下は29人増えて516人だった。19歳以下の年間自殺者数は近年、500~600人ほどが続いている。
 原因・動機(1人三つまで)別では、病気などの「健康問題」が最多の9894人、生活苦など「経済・生活問題」が3179人、家族の不和など「家庭問題」が2922人と続く。19歳以下では「学校問題」が152人で、「不詳」(181人)に次いで多かった。
 厚労省の担当者は、自殺者数が減った背景について、「経済・生活問題」を理由とした人数がピーク時の4割ほどとなるなど景気の回復に加え、06年に自殺対策基本法が制定されて、各地で対策が進んできたことがあるとみている。
 一方、未成年者について「(ツイッターに自殺願望を投稿した若者も被害にあったとされる)神奈川県座間市の事件も起きており、対策を着実に進めなければいけない」とし、SNSへの自殺願望の投稿を見つけて相談機関へつなぐ体制の強化などを進める考えだ。(佐藤啓介)
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「日本の医療に不満」が過半数、民間シンクタンク世論調査で

2018年01月21日 12時04分25秒 | タバコ
(調査報告)「2017年 日本の医療に関する世論調査」
日時
2018-01-18

当機構では、国民が求める医療や医療政策課題等に関する国民の意識・意見を把握するため、2006年から世論調査を実施しています。2017年は、当初から継続的に調査を行ってきた医療・医療制度に対する満足度に加え、昨今話題となっている、受動喫煙対策やセルフメディケーション税制、リフィル処方せんなどについても調査を行いました。

調査結果のポイント(概要)

・医療制度に関する全般的な満足度は半数を割る
・特に、制度決定への市民参加の度合いと制度決定プロセスの公正さに対する満足度は低い
・飲食店における受動喫煙対策について、半数が飲食店の広さに関係なく全面禁煙を求める
・電気加熱式たばこについて、健康への影響が明らかになっていなくても、66%が早急に受動喫煙対策の対象とすることを求める
・「セルフメディケーション税制」については89%が知らない

調査結果から浮かび上がる日本の医療政策「今後の論点」
今回の調査結果から、医療の持続可能性を議論するための論点として、以下が指摘できると分析しました。

・医療制度決定プロセスへの国民の参画が推進されてきてはいるが、より積極的な参画やプロセスの透明性の向上が今後の論点になりうる
・受動喫煙対策は、人命や健康に影響する公衆衛生上の政策であるため、対策の形骸化を生む内容を盛り込むことなく、実効性の高い受動喫煙対策の実現が今後の論点になりうる

https://www.hgpi.org/report_events.html?article=775
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稀勢の里休場届け出 親方「体も心も作り直さないと…」

2018年01月21日 12時01分15秒 | 運動スポーツ
稀勢の里休場届け出 親方「体も心も作り直さないと…」
2018年1月19日 (金)配信朝日新聞

 大相撲初場所(東京・国技館)6日目の19日、横綱稀勢の里(31)=本名・萩原寛(ゆたか)、茨城県出身、田子ノ浦部屋=が日本相撲協会に休場を届け出た。5日目まで1勝4敗だった。休場は昨年夏場所から5場所連続。横綱が5場所以上続けて休場するのは2002年九州場所から6場所休んだ武蔵丸以来。今場所後の横綱審議委員会で厳しい意見が出れば、来場所は進退問題に発展する可能性もある。
 師匠の田子ノ浦親方(元幕内隆の鶴)によると、5日目の嘉風戦で左胸を痛めたといい、「左大胸筋損傷疑い、左前胸部打撲で3週間の安静とする」との診断書を提出した。田子ノ浦親方は「古傷に近い箇所。泥臭くやって上がってきた男。体も心も作り直さないといけない」と話した。
 稀勢の里は今場所、稽古量に自信を持って臨んだが、初日に新小結貴景勝に敗れると、3日目から平幕に3連敗。3日連続の金星配給は先場所に続く屈辱だった。
 横審の北村正任委員長(毎日新聞社名誉顧問)は場所前、稀勢の里が仮に全休してもまだ進退問題にはならない、との見解を示していた。一方で、星勘定が悪くなってからの途中休場は印象が良くないとの認識だった。横審の内規は横綱の休場が多い場合、「激励、注意、引退勧告等をなす」と定めている。
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初代貴ノ花とタバコ

2018年01月21日 00時09分44秒 | 運動スポーツ
ウィキペディアより

貴ノ花 利彰(たかのはな としあき、1950年2月19日 - 2005年5月30日)は、青森県弘前市出身(北海道室蘭市生まれ)の元大相撲力士。現役時は二子山部屋所属であった。最高位は東大関。本名は花田 満(はなだ みつる)。身長183cm、体重114kg、血液型はB型。得意技は左四つ、寄り、吊り、上手投げ。「土俵の鬼」と謳われた第45代元横綱・初代若乃花の弟という血筋のよさに加え、細身で均整のとれた体格と甘いマスクから、角界のプリンスと呼ばれた[1]。大相撲の歴史上、また日本のスポーツ史上屈指の人気を誇った。位階は従五位旭日小綬章受章。

1993年1月場所後に次男の花田光司が四股名を「貴花田」から「貴ノ花」に変え、そして1994年11月以降の四股名であり後に一代年寄名跡となった「貴乃花」にして以降は、父の方は「初代貴ノ花」または「先代貴ノ花」と呼ばれている。

30歳で現役引退

1980年(昭和55年)1月場所は、7勝8敗と大関昇進後唯一の皆勤での負け越しを喫し、この頃から貴ノ花の限界説が危惧され始める。「次で負け越したら引退する」と、背水の陣で望んだ翌3月場所は5度目の大関角番を脱出し10勝5敗の成績を挙げ、なんとか面目躍如となったものの、この場所が貴ノ花の現役最後の2桁勝利となった。

1980年11月場所3日目、大関候補と呼ばれ日の出の勢いだった千代の富士に一方的に敗れ、この時の相撲を引き金に貴ノ花は引退を決意したと言われている。自分と同じく軽量の千代の富士にはかねてから特に目をかけており、「喫煙を止めれば体重は増える。自分は結局止められなかったが、お前は止めろ」とのアドバイスによって、千代の富士はきっぱりとタバコを止めたという。その後千代の富士は「貴ノ花関のおかげで横綱になれた」とも語っている。

なお、後年に「昭和の大横綱」へ成長した千代の富士が、1991年(平成3年)5月場所限りで引退を決意したのは、奇しくも貴ノ花の実子である貴花田に、同場所初日の初対戦で敗れた事がきっかけと言われている。また、千代の富士の現役最後の一番となった同場所3日目の取組相手は、これも同じく貴ノ花の愛弟子だった貴闘力であった。

その翌場所、1981年(昭和56年)1月場所では当時前人未到の、大関在位50場所目を迎えた(現在は大関在位65場所・共に歴代1位タイの千代大海と魁皇に次いで歴代3位)。しかし序盤から波に乗れず、6日目の対蔵玉錦戦を最後に、30歳11か月でついに土俵を去っていった(7日目は引退により不戦敗、成績は2勝5敗)。実は、貴ノ花自身は翌7日目の対戦相手である朝汐戦を最後の相撲として取りたかったそうだが、師匠の二子山は「引退を口にした者が相撲を取ることは許されない。満、引き際というのは肝心なんだぞ」と止められたという。貴ノ花が引退した際、二子山は「さあ、これで初めて兄と弟に戻って、うまい酒が飲めるぞ」と喜んでいる[12]。

朝汐が不戦勝の勝ち名乗りを受ける時、館内からは引退を惜しむファンから「たかのはなあ〜」の歓声が挙がっていた。この日の実況を担当した、当時のNHKアナウンサー:杉山邦博は「今日、貴ノ花関が引退です……」と伝えた後に、思わず涙で言葉を詰まらせてしまった(この事から後に週刊誌などで「泣きの杉山」と書かれている)。その杉山の状況を察した、解説の玉ノ海は機転を利かせて、しばらくひとりで貴ノ花評を語り続けている。この場所貴ノ花は、力の衰えを感じそれを体重でカバーする為に禁煙を試みたものの、却って体調不安を起こす結果になった。[22]長年、頭からぶつかる相撲だったために頸椎を痛めているなど、満身創痍の状態での現役引退だった。ちなみに貴ノ花の子息である長男・3代若乃花は29歳2か月、次男・貴乃花は30歳5か月と、父親とほぼ同年齢の若さでそれぞれ引退している。

年寄時代

引退後に年寄・鳴戸を襲名し、二子山部屋付きの親方になる。1982年には藤島に名跡変更して初代若乃花の二子山部屋から分家独立し、藤島部屋を興した。後に長男の若花田(後の横綱・3代目若乃花)、次男の貴花田(後の横綱・貴乃花)が入門し、大きな話題になった。卓越した指導能力は折り紙つきで、他にも、後に大関となる貴ノ浪、関脇の安芸乃島や貴闘力など有力力士が育ち、藤島部屋は一気に有力部屋へと発展した。琴錦は藤島部屋の稽古について「あの部屋は稽古量が多い上に、一つひとつ中身が濃く無駄がない。最後の仕上げのトレーニングまで、若い衆だけでなく関取も含め全員でやっていた」と後年振り返っている[23]。しかしその反面、パワー相撲を得意とする巨漢力士の育成は苦手で、豊ノ海、五剣山は将来を大きく期待されながらも、大きな体を活かした相撲を身につけることができず、期待にこたえることができなかった。同じく巨漢であった摩天楼と藤ノ花は関取にすらなることができなかった。

1993年、兄である二子山の停年直前に年寄名跡を交換して年寄・二子山となり二子山部屋を継承、藤島部屋と二子山部屋の合併により二子山部屋は一気に大部屋になったが、当時の貴花田にとって数少ない強敵(通算対戦成績で負け越している)だった三杉里との対戦がなくなるなどの点が指摘された。そして1994年11月場所後に次男の貴乃花が横綱に昇進すると、二子山部屋は絶頂期を迎えた。1998年5月場所後には長男の若乃花も横綱に昇進し、兄弟同時横綱の壮挙が実現するが、その直後から若乃花・貴乃花兄弟の不仲や貴乃花の「洗脳騒動」など、周囲に暗雲が漂い始める。そして弟子の貴乃花が引退すると部屋を譲り部屋付きとなった(これを機に、二子山部屋は貴乃花部屋と改称)。

日本相撲協会では1992年に監事(現在の副理事)、1996年には理事に昇格し巡業部長となった。同年に年寄名跡『二子山』の譲渡金およそ3億円の申告漏れを指摘され、巡業部長の職を解かれたが後に復帰、2002年には審判部長、2004年2月から事業部長に就任した。

晩年・55歳で早世

2003年(平成15年)秋頃からあごの痛みを訴えるなど体調を崩していたため、入退院を繰り返しながら病気療養を続けていた。2004年(平成16年)夏頃に再入院してからは、喉が詰まって普通に話しする事さえままならない状態となり、相撲協会の職務を休みがちとなっていた。当初の病名は、公には「口内炎」と発表していた。なお入院時には北の湖理事長(1期目当時)を初め、相撲関係者からのお見舞いは殆ど断っていたという。

2005年(平成17年)1月30日には、自らスカウトした愛弟子の音羽山(元大関・貴ノ浪)の断髪式に入院先の病院から駆け付け、国技館内の好角家からは大きな拍手が送られた。しかし投薬治療が長く続いた影響か、この時の二子山の顔色は明らかに優れず、頭髪も薄くなっていた。また土俵に上がる際には、足がよろけて自力で登る事が出来ず、呼出の手を借りなければならない程、体調は相当に悪化した状態だった。昭和の大相撲を彩り、一時代を築いた人気力士だった頃の面影は殆ど失われ、まるで別人のように余りにも衰え窶れ果てた二子山の姿に会場の好角家は衝撃を受け、涙を禁じ得ない者もいた。

この頃から、彼の重病説などが囁かれるようになった事もあり、同年2月23日にはそれまでの口内炎の病名を改め、次男の貴乃花から「口腔底癌」であることが発表された(現役時代からヘビースモーカーとして知られ、これが一番の病因とも言われる)。その後二子山は意識不明の重体に陥り、3カ月後の5月30日に口腔底癌のため、東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去。55歳没。結果的に同年1月の貴ノ浪の引退相撲が、生涯最後の公の姿となってしまった。
自ら手塩に掛け育て上げた二人の愛息であり、愛弟子でもあった若貴兄弟の確執を巡るスキャンダルに悩まされ、貴乃花部屋の規模も衰えて関取不在の状況となり、憲子夫人とも2001年に離婚するなど、現役時代「角界のプリンス」と呼ばれた花形力士としてはいささか寂しい晩年であった。

6月2日に各界著名人、ファンを集めて告別式が行われた。6月10日、従五位に叙せられ、旭日小綬章を授与された(叙位・叙勲の日付は逝去日の5月30日)。6月13日には、両国国技館に於いて北の湖日本相撲協会理事長(当時)を葬儀委員長として日本相撲協会葬が執り行われた。戒名は霊友会からの「誠生院法憲祐幸智徳善士」と天桂寺からの「双綱院貴関道満居士」の二つが在る。
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