昨日は西谷駅から二俣川まで歩きました。
途中聴いたのは1841年生まれのドヴォルザークの作品。
あまりにも有名なチェコの作曲家なので略歴は省略する。
昨日聴いたのは、チェロ協奏曲ロ短調作品104である。
1894年から1895年にかけて作曲された作品であるが、
これはチェロ協奏曲第2番といわれることもある。
というのも若い時期にチェロ協奏曲イ長調B.10があるからだ。
このチェロ協奏曲イ長調は、ピアノ伴奏版は作られたものの、
本人自身によるオーケストレーションは完成していない。
したがって、本人自身の手によってオーケストレーションされ、
完成したチェロ協奏曲といえば、これが唯一である。
今回はミロシュ・サードロのチェロ、ノイマンの指揮、
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で聴いてみた。
第一楽章アレグロは、まず管弦楽によって主題が奏される。
壮大でいかにもスラヴ的な色彩の強い音楽である。
チェコの自然を思わせるようなのどかな部分もある。
一方でホルンが奏する旋律などには、
アメリカ的な部分も感じられるような感じがする。
長大な提示部に続き、チェロ独奏も主題を奏する。
独奏チェロはカデンツァ風に、そして歌うように演奏する。
哀愁のただよう管弦楽の伴奏が流れる中では、
まるで独白を聴くかのようにチェロは語りかけてくる。
チェロの技巧も発揮されるところもあり、
やはりチェロ協奏曲の名曲の一つとされるのも納得できる。
ソナタ形式による楽章の最後は、第一主題に基づくコーダが、
管弦楽のトゥッティで奏されて華々しく終わる。
第二楽章アダージョ・マ・ノン・トロッポは、
三部形式で書かれ、牧歌的なのどかな曲である。
とはいえ、内に秘めた情熱が独奏チェロと管弦楽によって発露する。
ここでも歌うようなチェロの独奏を聴くことができるが、
この中で使われる旋律の一部は、
ドヴォルザーク自身の歌曲から採っている。
後半ではカデンツァ風に独奏チェロは主題を変奏し、
最後はチェロと管弦楽によっておだやかに、そして静かに終わる。
第三楽章フィナーレ、アレグロ・モデラートは、
ロンド形式で書かれており、最初管弦楽により主題が奏され、
独奏チェロがそれを引き継いで、主題を奏し、
管弦楽が再びトゥッティで主題を奏して始まる。
ボヘミアの郷土への愛着が管弦楽の音楽の中にも見られ、
独奏チェロも早く故郷に帰りたいなあなんて、
つぶやいているようにも聴こえたりもするのである。
終わりにかけてチェロ独奏のあとの管弦楽によるコーダは、
この曲が交響曲のように思わせるように壮大で、華麗である。
途中聴いたのは1841年生まれのドヴォルザークの作品。
あまりにも有名なチェコの作曲家なので略歴は省略する。
昨日聴いたのは、チェロ協奏曲ロ短調作品104である。
1894年から1895年にかけて作曲された作品であるが、
これはチェロ協奏曲第2番といわれることもある。
というのも若い時期にチェロ協奏曲イ長調B.10があるからだ。
このチェロ協奏曲イ長調は、ピアノ伴奏版は作られたものの、
本人自身によるオーケストレーションは完成していない。
したがって、本人自身の手によってオーケストレーションされ、
完成したチェロ協奏曲といえば、これが唯一である。
今回はミロシュ・サードロのチェロ、ノイマンの指揮、
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で聴いてみた。
第一楽章アレグロは、まず管弦楽によって主題が奏される。
壮大でいかにもスラヴ的な色彩の強い音楽である。
チェコの自然を思わせるようなのどかな部分もある。
一方でホルンが奏する旋律などには、
アメリカ的な部分も感じられるような感じがする。
長大な提示部に続き、チェロ独奏も主題を奏する。
独奏チェロはカデンツァ風に、そして歌うように演奏する。
哀愁のただよう管弦楽の伴奏が流れる中では、
まるで独白を聴くかのようにチェロは語りかけてくる。
チェロの技巧も発揮されるところもあり、
やはりチェロ協奏曲の名曲の一つとされるのも納得できる。
ソナタ形式による楽章の最後は、第一主題に基づくコーダが、
管弦楽のトゥッティで奏されて華々しく終わる。
第二楽章アダージョ・マ・ノン・トロッポは、
三部形式で書かれ、牧歌的なのどかな曲である。
とはいえ、内に秘めた情熱が独奏チェロと管弦楽によって発露する。
ここでも歌うようなチェロの独奏を聴くことができるが、
この中で使われる旋律の一部は、
ドヴォルザーク自身の歌曲から採っている。
後半ではカデンツァ風に独奏チェロは主題を変奏し、
最後はチェロと管弦楽によっておだやかに、そして静かに終わる。
第三楽章フィナーレ、アレグロ・モデラートは、
ロンド形式で書かれており、最初管弦楽により主題が奏され、
独奏チェロがそれを引き継いで、主題を奏し、
管弦楽が再びトゥッティで主題を奏して始まる。
ボヘミアの郷土への愛着が管弦楽の音楽の中にも見られ、
独奏チェロも早く故郷に帰りたいなあなんて、
つぶやいているようにも聴こえたりもするのである。
終わりにかけてチェロ独奏のあとの管弦楽によるコーダは、
この曲が交響曲のように思わせるように壮大で、華麗である。
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