7月まち歩きツアーは、ゆめタウンを出発し、大牟田川沿いに出て泉橋を渡り、
三井医局跡で、「ここが医局の門柱でした。ここの奥のほうに団琢磨宅がありました。」の解説を受けました。
もう、60数年前のこと、母方のおばあちゃんがこの医局でなくなりました。お腹に大きな石が入っていたと教えられました。
ベッドに横たわるおばあちゃんに、母がすがって泣き崩れていたのをーーかすかに思い出しました。
葛の群生がある坂道を上って高射砲陣地跡、学徒動員犠牲者慰霊碑へと行きました。
高射砲陣地の本拠地は延命公園に構築されていたそうで、この地もその陣地の一つ。今はこの陣地のみが残っているそうです。
学徒動員犠牲者の碑には「昭和20年8月7日殉職者」とありました。
大牟田は5回の空襲を受け、「4回目には工場地帯が対象となり、多くの犠牲者が出た」
「三池染料工業所の検査課で働いていた方々の中には学徒動員されていた伝習館の生徒もいた」そうです。
『大牟田の空襲』第26集(2013年7月 大牟田の空襲を記録する会 発行)のP77を読みますと
8.7大牟田空襲での死者の数は『大牟田市史』に書かれている<23人>よりずっと多く3桁の数字になるそうです。
名前等確認できる死者は a、学生、生徒 b、藤田町ー住民や朝鮮人労働者 c、工場労働者 がありその数が示されています。
a、の学生、生徒は各学校の記念誌や慰霊碑、追悼文集などで名前が確認されています。
「中学伝習館 17、三池中学 7、八女工業学校 5、県立大牟田高女 3、大牟田商業学校 2、豊州高女 2、大牟田高等小 1、
大牟田家政女学校 1、大分経専(氏名未確認) 1、三井工業学校(勤労動員中でない) 2、」となっています。
「殉職者の碑」には動員生徒6名を含む29人の名が刻まれています。 (合掌)