週末は土曜日は天気のよさに誘われて、外の出たついでに映画「テルマエ・ロマエ」を観てきました。なかなかの娯楽映画ですした。日曜日は家内を出かけたので、掃除、洗濯、半月版損傷をおしてゴルフの練習、図書館へ・・。金環食を見る眼鏡?を買うのをすっかり忘れていました。
さて、本日の作品は、先日投稿しました作品「蘇江雨意 高倉観崖筆」と非常に良く似ている風景です。「蘇江」と「雷峰」との位置関係がまだ調べていませんので、良く解っていません。
雷峰春色 小村大雲筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:横425*縦2035 画サイズ:横310*縦1200
小室大雲についての投稿は2作品目となります。
一作品目は「昇龍 小室大雲筆」であり、小室大雲が曾おじいさんにあたる方からコメントをいただき、嬉しくもあり、また驚きました。
箱書の印章は白文朱方印で「厳座」とあるので、朱文白方印は対比として「子荘」と推察されます。
箱に入っている紙には西湖湖畔とあり、雷峰とは西湖の畔に建つ塔のことのようです。
インターネットにて検索した文章を下記に引用します。今ではエレベーターがあるとか・・
『西湖の南岸、夕照山上の雷峰塔は呉越王が黄妃の子供を産んだことを祝って建てたという。そのため元は「黄妃塔」と言った。ただ、この塔が雷峰にあるため民間では雷峰塔と呼ぶようになった。塔は七層からなり、ひさしが重なり窓のくっきりとした様は非常に壮観である。往時の雷峰塔と保叔塔は湖を挟んで南北に相対しており「雷峰は老納(老僧)の如し、保叔は美人の如し」の誉れがあった。夕日が西に沈む頃の塔影が長く伸びる様子も美しく、そのため「雷峰夕照」と呼ばれるようになった。明の嘉靖年間に至って塔の外部の楼廊が和冦のために破壊された。また塔を構成するレンガは迷信深い人々のために盗まれ続け、1924年9月25日遂に倒壊した。清の許承祖の詩には「黄妃の古塔は穹窿に勢あり、蒼翠の藤蘿は兀として空に倚り、奇景那ぞ知らん劫火に縁り、孤峰の斜映夕陽紅たり(黄妃の古塔は青空を圧倒し、青々としたつる草は空にまで伸びる。この奇観がなぜ劫火に焼かれたのか、孤峰が夕日に赤く照らされるばかり)」とある。』
山元春挙に師事したという点ではあきらかに似通った色使いです。
小村大雲:明治16年、島根県楯縫郡平田町の小村豊兵衛の長男として生まれる。明治30年に橋本雅邦の門や川端玉章の門をたたくが断られ帰郷、広島で絵の修行をするが、訳あって脱門し、明治36年には山元春挙に師事する。
大正元年(1912)島根の加賀浦で題材を得た「釣日和」が第6回文部省美術展覧会で入賞、以後3年連続入選、5年には「畫舫」が第10回文展で特選、以後も特選、無鑑査となる。永久無鑑査となり、以後ほぼ毎年作品を出品し、委員、審査員など歴任する。昭和10年(1935)明治神宮に壁画「京浜鉄道開業式行幸図」が完成。13年に54歳の若さで急逝。名は権三郎、字は厳座、子荘と称した。別号は豊文・碧雲湖畔人・赤松子・豊瑞・豊花等有り。京都に出て都路華香に師事したのち、山元春挙の画塾早苗会に入門し画法を学ぶ。文展・帝展で受賞を重ね活躍する。昭和13年2月20日(1938)歿。享年56才。
さて、本日の作品は、先日投稿しました作品「蘇江雨意 高倉観崖筆」と非常に良く似ている風景です。「蘇江」と「雷峰」との位置関係がまだ調べていませんので、良く解っていません。
雷峰春色 小村大雲筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:横425*縦2035 画サイズ:横310*縦1200
小室大雲についての投稿は2作品目となります。
一作品目は「昇龍 小室大雲筆」であり、小室大雲が曾おじいさんにあたる方からコメントをいただき、嬉しくもあり、また驚きました。
箱書の印章は白文朱方印で「厳座」とあるので、朱文白方印は対比として「子荘」と推察されます。
箱に入っている紙には西湖湖畔とあり、雷峰とは西湖の畔に建つ塔のことのようです。
インターネットにて検索した文章を下記に引用します。今ではエレベーターがあるとか・・
『西湖の南岸、夕照山上の雷峰塔は呉越王が黄妃の子供を産んだことを祝って建てたという。そのため元は「黄妃塔」と言った。ただ、この塔が雷峰にあるため民間では雷峰塔と呼ぶようになった。塔は七層からなり、ひさしが重なり窓のくっきりとした様は非常に壮観である。往時の雷峰塔と保叔塔は湖を挟んで南北に相対しており「雷峰は老納(老僧)の如し、保叔は美人の如し」の誉れがあった。夕日が西に沈む頃の塔影が長く伸びる様子も美しく、そのため「雷峰夕照」と呼ばれるようになった。明の嘉靖年間に至って塔の外部の楼廊が和冦のために破壊された。また塔を構成するレンガは迷信深い人々のために盗まれ続け、1924年9月25日遂に倒壊した。清の許承祖の詩には「黄妃の古塔は穹窿に勢あり、蒼翠の藤蘿は兀として空に倚り、奇景那ぞ知らん劫火に縁り、孤峰の斜映夕陽紅たり(黄妃の古塔は青空を圧倒し、青々としたつる草は空にまで伸びる。この奇観がなぜ劫火に焼かれたのか、孤峰が夕日に赤く照らされるばかり)」とある。』
山元春挙に師事したという点ではあきらかに似通った色使いです。
小村大雲:明治16年、島根県楯縫郡平田町の小村豊兵衛の長男として生まれる。明治30年に橋本雅邦の門や川端玉章の門をたたくが断られ帰郷、広島で絵の修行をするが、訳あって脱門し、明治36年には山元春挙に師事する。
大正元年(1912)島根の加賀浦で題材を得た「釣日和」が第6回文部省美術展覧会で入賞、以後3年連続入選、5年には「畫舫」が第10回文展で特選、以後も特選、無鑑査となる。永久無鑑査となり、以後ほぼ毎年作品を出品し、委員、審査員など歴任する。昭和10年(1935)明治神宮に壁画「京浜鉄道開業式行幸図」が完成。13年に54歳の若さで急逝。名は権三郎、字は厳座、子荘と称した。別号は豊文・碧雲湖畔人・赤松子・豊瑞・豊花等有り。京都に出て都路華香に師事したのち、山元春挙の画塾早苗会に入門し画法を学ぶ。文展・帝展で受賞を重ね活躍する。昭和13年2月20日(1938)歿。享年56才。