生前から30年間、懇意にしていて、一昨年に亡くなった平野庫太郎氏が、平成30年秋田県文化功労者に表彰されています。昨年の一周忌には義父がお盆に亡くなったので線香をあげられなかったので、昨年末に自宅を訪れていましたが、その受賞を知らずにいて失礼してしまいました。
男の隠れ家にはいつも平野庫太郎氏の作品を飾っています。確かな轆轤の技術と追及し続けてきた釉薬の魅力は評価を高め続けることでしょう。
昨日、家内が稽古仲間と自宅で初釜を催す際には床に花入れに生前に最後に頂いた花入れを飾りました。
床の掛け軸は遠州流の初釜にふさわしいものとして選択しながら、昨年亡くなったの義父を偲ぶ会であり、一周忌を迎えた母や平野庫太郎氏を偲ぶ会でもあります。
松下塵 辻宗範筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1125*横527 画サイズ:縦266*横498
「松下塵」は李白の下記の漢詩の一部を書にしたものです。
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李白(唐代のみならず中国詩歌史上において、同時代の杜甫とともに最高の存在とされる)の五言律詩「酒に對して賀監を憶ふ」(壺齋散人注)
四明有狂客 四明に狂客有り
風流賀季真 風流なる賀季真
長安一相見 長安に一たび相ひ見しとき
呼我謫仙人 我を謫仙人と呼ぶ
昔好杯中物 昔は杯中の物を好みしが
今爲松下塵 今は松下の塵と爲れり
金龜換酒處 金龜 酒に換へし處
卻憶涙沾巾 卻って憶へば涙巾を沾す
四明山に変わった男がいた、その名を風流なる賀季真といった、長安で初めて出会ったとき、私を謫仙人と呼んだものだ
昔は酒を好んだが、今では松下の塵となってしまった(亡くなって土に帰ったことをいう)、金龜を売って酒を買ったあの場所、それを思い出すと涙が衣を潤すのだ
賀監とは賀知章のこと。高官を勤めながら破天荒な生き様で知られていた。李白がその賀知章と長安で出会った時、賀知章はすでに80歳を超えた老人であったが、李白を見て意気投合し、李白を謫仙人と呼んだ。
若い頃から奇行の多かった彼は、年をとると酒びたりの日々を送るようになった。そして743年の冬に病に倒れ数日の間意識を失った。意識を取り戻したとき、彼は道教の天国に旅をしてきたのだと話した。
744年、賀知章は道士となって故郷に戻ることを願い出、長楽坡で玄宗皇帝以下多くの高官たちの見送りを受けた。そのときに大勢の人々が別れの詩を作り、李白もそれに習ったが、儀礼を重んじた形式的なものだった。
賀知章は745年に高齢で死んだ。李白は彼の没後その人柄を偲んで、儀礼を抜きにしてこの詩を作った。
この詩の序で、『皇太子の賓客であった賀公は、長安の紫極宮で私の詩を読むなり、私を“謫仙人”と呼んだ。それを機に、金亀を解いて酒に換えて、ご馳走してくれた。賀公が亡くなってからは、お酒に向かうと悲しみがこみ上げてくるのである。そこでこの詩を作った』 と述べています。しみじみとした友情と敬愛の情があふれた作品である。賀知章を思うの念がよほど強かったのだろう。
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亡き義父、亡き友人を偲ぶ床の軸です。
書を書いた辻 宗範は遠州流の「中興の立役者」と称えらられ、遠州流8代小堀宗中に奥義を再伝授し、遠州流茶道ではこれを「返し伝授」と称しています。よってお濃茶の茶碗は宗中に縁のある茶碗にしています。
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辻 宗範:(つじ そうはん)宝暦8年(1758年)~天保11年(1840年)は、江戸時代中期の茶道家。近江国出身。宝暦8年(1758年)、近江坂田郡国友村(現滋賀県長浜市国友町)に生まれ、幼時から漢学を学び、成人後は小室藩(現長浜市小室町)の茶頭を務めていた冨岡友喜から遠州流茶道の奥義を究め、茶道、華道、礼法、和歌、俳句、絵画、書道、造庭など多方面にわたり豊かな才能を発揮した。
辻家は室町時代の文明年中(15世紀)以来、国友の郷士として活躍し、代々又左衛門を襲名。 宗範は、10代目の名前で、壮年期は、又之進と号し、妻(モン)は浅井町小室の高橋権太友ごんだゆうの娘。小室藩は田沼意次失脚に伴う田沼派大名粛清から天明8年(1788年)に改易となり、遠州流茶道も廃れかかっていた。
文化6年(1809年)、宗範は後に小堀家(旗本として再興)当主となる遠州流8代小堀宗中に奥義を再伝授した。遠州流茶道ではこれを「返し伝授」と呼び、遠州流では今なお宗範を「中興の立役者」と称えている。
茶道、礼法、書道では奥義を極め、多くの門人を養成し、その後、徳川将軍家の茶道師範を務め、晩年は尾張藩から高禄での招聘を受けたが断り、晩年は国友の地にありました。
いろいろな人と交わりをもち、浄土真宗の信仰を深めるなどして、天保11年(1840年)に生涯を閉じました。茶道を始めとして華道・書道・礼法、和歌、俳句、南画、造園など多方面に才能を発揮し、勝元鈍穴の他多くの門人を育てた。現在も、国友町に辻宗範の自宅跡地が残っています。叔父(父の弟)丹治は彫金師の臨川堂充昌、国友藤兵衛一貫斎は甥(姉みわの子)に当たる。
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さて手元にある作品で酒器を・・・・。冷酒の酒器は陶磁器なら李朝か唐津か、漆器なら朱椀かな? 前にも話したように日本酒の冷酒は平な酒器が一番です。決してワイングラスや猪口などで飲むのはとは一味違います。
さて本日は機会があって値ごろな値段なら入手している李朝の酒器の紹介です。すぐに茶器にみたてる御仁多いですが、このような形状は茶碗にするには平すぎるし、ちょっと小さすぎる器です。
李朝 刷毛目三島手平盃
合箱
口径118*高さ35*高台径
李朝は復刻品や贋作が多いのですが、この程度の作品に真贋で目くじらを立てる必要のありますまい。
食器にも当然手頃な作品ですね。
発掘した作品で破損している作品を金繕いした作品もいいのですが、やはり完璧な作品がいいですね。
本作品も欠けの部分を補修された古い跡があります。
唐津を李朝は共通した特徴が高台にあるようで、兜巾や三日月型は共通しているようです。平野庫太郎氏はお酒が好きでした・・・・・。
男の隠れ家にはいつも平野庫太郎氏の作品を飾っています。確かな轆轤の技術と追及し続けてきた釉薬の魅力は評価を高め続けることでしょう。
昨日、家内が稽古仲間と自宅で初釜を催す際には床に花入れに生前に最後に頂いた花入れを飾りました。
床の掛け軸は遠州流の初釜にふさわしいものとして選択しながら、昨年亡くなったの義父を偲ぶ会であり、一周忌を迎えた母や平野庫太郎氏を偲ぶ会でもあります。
松下塵 辻宗範筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1125*横527 画サイズ:縦266*横498
「松下塵」は李白の下記の漢詩の一部を書にしたものです。
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李白(唐代のみならず中国詩歌史上において、同時代の杜甫とともに最高の存在とされる)の五言律詩「酒に對して賀監を憶ふ」(壺齋散人注)
四明有狂客 四明に狂客有り
風流賀季真 風流なる賀季真
長安一相見 長安に一たび相ひ見しとき
呼我謫仙人 我を謫仙人と呼ぶ
昔好杯中物 昔は杯中の物を好みしが
今爲松下塵 今は松下の塵と爲れり
金龜換酒處 金龜 酒に換へし處
卻憶涙沾巾 卻って憶へば涙巾を沾す
四明山に変わった男がいた、その名を風流なる賀季真といった、長安で初めて出会ったとき、私を謫仙人と呼んだものだ
昔は酒を好んだが、今では松下の塵となってしまった(亡くなって土に帰ったことをいう)、金龜を売って酒を買ったあの場所、それを思い出すと涙が衣を潤すのだ
賀監とは賀知章のこと。高官を勤めながら破天荒な生き様で知られていた。李白がその賀知章と長安で出会った時、賀知章はすでに80歳を超えた老人であったが、李白を見て意気投合し、李白を謫仙人と呼んだ。
若い頃から奇行の多かった彼は、年をとると酒びたりの日々を送るようになった。そして743年の冬に病に倒れ数日の間意識を失った。意識を取り戻したとき、彼は道教の天国に旅をしてきたのだと話した。
744年、賀知章は道士となって故郷に戻ることを願い出、長楽坡で玄宗皇帝以下多くの高官たちの見送りを受けた。そのときに大勢の人々が別れの詩を作り、李白もそれに習ったが、儀礼を重んじた形式的なものだった。
賀知章は745年に高齢で死んだ。李白は彼の没後その人柄を偲んで、儀礼を抜きにしてこの詩を作った。
この詩の序で、『皇太子の賓客であった賀公は、長安の紫極宮で私の詩を読むなり、私を“謫仙人”と呼んだ。それを機に、金亀を解いて酒に換えて、ご馳走してくれた。賀公が亡くなってからは、お酒に向かうと悲しみがこみ上げてくるのである。そこでこの詩を作った』 と述べています。しみじみとした友情と敬愛の情があふれた作品である。賀知章を思うの念がよほど強かったのだろう。
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亡き義父、亡き友人を偲ぶ床の軸です。
書を書いた辻 宗範は遠州流の「中興の立役者」と称えらられ、遠州流8代小堀宗中に奥義を再伝授し、遠州流茶道ではこれを「返し伝授」と称しています。よってお濃茶の茶碗は宗中に縁のある茶碗にしています。
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辻 宗範:(つじ そうはん)宝暦8年(1758年)~天保11年(1840年)は、江戸時代中期の茶道家。近江国出身。宝暦8年(1758年)、近江坂田郡国友村(現滋賀県長浜市国友町)に生まれ、幼時から漢学を学び、成人後は小室藩(現長浜市小室町)の茶頭を務めていた冨岡友喜から遠州流茶道の奥義を究め、茶道、華道、礼法、和歌、俳句、絵画、書道、造庭など多方面にわたり豊かな才能を発揮した。
辻家は室町時代の文明年中(15世紀)以来、国友の郷士として活躍し、代々又左衛門を襲名。 宗範は、10代目の名前で、壮年期は、又之進と号し、妻(モン)は浅井町小室の高橋権太友ごんだゆうの娘。小室藩は田沼意次失脚に伴う田沼派大名粛清から天明8年(1788年)に改易となり、遠州流茶道も廃れかかっていた。
文化6年(1809年)、宗範は後に小堀家(旗本として再興)当主となる遠州流8代小堀宗中に奥義を再伝授した。遠州流茶道ではこれを「返し伝授」と呼び、遠州流では今なお宗範を「中興の立役者」と称えている。
茶道、礼法、書道では奥義を極め、多くの門人を養成し、その後、徳川将軍家の茶道師範を務め、晩年は尾張藩から高禄での招聘を受けたが断り、晩年は国友の地にありました。
いろいろな人と交わりをもち、浄土真宗の信仰を深めるなどして、天保11年(1840年)に生涯を閉じました。茶道を始めとして華道・書道・礼法、和歌、俳句、南画、造園など多方面に才能を発揮し、勝元鈍穴の他多くの門人を育てた。現在も、国友町に辻宗範の自宅跡地が残っています。叔父(父の弟)丹治は彫金師の臨川堂充昌、国友藤兵衛一貫斎は甥(姉みわの子)に当たる。
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さて手元にある作品で酒器を・・・・。冷酒の酒器は陶磁器なら李朝か唐津か、漆器なら朱椀かな? 前にも話したように日本酒の冷酒は平な酒器が一番です。決してワイングラスや猪口などで飲むのはとは一味違います。
さて本日は機会があって値ごろな値段なら入手している李朝の酒器の紹介です。すぐに茶器にみたてる御仁多いですが、このような形状は茶碗にするには平すぎるし、ちょっと小さすぎる器です。
李朝 刷毛目三島手平盃
合箱
口径118*高さ35*高台径
李朝は復刻品や贋作が多いのですが、この程度の作品に真贋で目くじらを立てる必要のありますまい。
食器にも当然手頃な作品ですね。
発掘した作品で破損している作品を金繕いした作品もいいのですが、やはり完璧な作品がいいですね。
本作品も欠けの部分を補修された古い跡があります。
唐津を李朝は共通した特徴が高台にあるようで、兜巾や三日月型は共通しているようです。平野庫太郎氏はお酒が好きでした・・・・・。