夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

荘子観瀑之図 福田豊四郎筆 昭和3年 その150

2023-11-08 00:01:00 | 掛け軸
掛け軸の表具で痛みやすい部分に掛軸の上下部分の「天地」と称する部分があります。上の「天」の部分は巻きシワや紐の擦れが発生しやすく、下の「地」の部分は軸先との境が切れやすいところです。

すべての表具は改装するのは費用の面で負担になりますが、初期の傷みなら「天地」だけを交換するという費用を抑えるメンテの方法もあります。

下記の作品は天地のみを交換してメンテしていた作品で、さらに太巻の保管箱にしたものです。

立美人図 三畠上龍筆
紙本着色軸装 軸先蒔絵 合箱
全体サイズ:縦1972*横548 画サイズ:縦411*横987
2023年10月:太巻き軸箱+多当紙新調 15,590円



この作品は天地に紐の擦れや巻きシワがあったので、そこの部分のみの改装としていた作品です。さらに太巻として今後は巻きシワを発生しにくくしています。



巻きシワが入りだすとどんどん掛け軸は状態が悪くなりますので、早めに手をうちたい状態では天地交換や太巻の保管箱にするというメンテがおすすめです。

 

この手の作品は贋作も多く、本作品は真贋も不明なので、費用負担を抑える方法で作品を長持ちさせる方法を選択しました。



さて本日紹介する作品は本ブログでしばしば紹介している福田豊四郎の作品です。昭和初期の福田豊四郎の若い頃の作品で、これよりもさらに若い頃の作品は入手が困難かと思われます。



この作品中の賛には「丙寅夏日春日荘干寫 豊四郎 白文朱方印(「豊白」) 朱文白方印(「豊四郎」)」とあり昭和3年(1928年)、20歳頃の作と推定されます。



当方の同郷の画家である福田豊四郎の作品は蒐集作品数としては150作品を超えています。これからは今まで以上に蒐集において、出来の良い作品や本作品のように資料的価値の高い作品に的を絞って蒐集するように心がけています。

荘子観瀑之図 福田豊四郎筆 昭和3年 その150
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 共箱
全体サイズ:縦2160*横540 画サイズ:縦1260*横410

 

若い頃の福田豊四郎の画歴は下記のとおりです。

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昭和初年頃の福田豊四郎の活動

秋田県鹿角郡小坂町の生まれ。本名は福田豊城。(印章に「豊白」を初期の頃には用いています。)

15歳で画家を志し、京都に出て洋画家・鹿子木孟郎にデッサンを学ぶ。日本画家・川端龍子の作品に感銘を受け、1921年(大正10年)東京で弟子入りするも、師に勧められ一年余で再び京都へ移り、日本画家・土田麦僊に師事する。

翌1924年(大正13)第4回国画創作協会展(国展)初入選。同協会は師・麦僊らが文展の審査に不満を持って結成した革新的な団体であり、豊四郎は以後1928年(昭和3年)の同協会解散まで出品を続けた。

1925年(大正14年)京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)入学、1928年卒業。同年、国画創作協会第一部(日本画部門)が解散すると、それまで国展を拠り所に出品を続けてきた若い画家たちのため、麦僊が後ろ盾となって「新樹社」が設立されるが、第2回展を開いたのち同団体は消滅。豊四郎は再び東京に戻り、川端龍子が樹立した「青龍社」に参加するも、1933年(昭和8年)同社が反官展を表明したのを機に脱退した。

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以上の画歴から京都市立絵画専門学校を卒業した直後の作と推定されます。



さらに本作品を描いた直後の活動を記しておきます。

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モダニズムの推進

1930年(昭和5年)26歳の若さで第11回帝展の特選を受賞した際、同じ特選受賞者で新進気鋭の日本画家、小松均と吉岡堅二に出会います。3人は1934年(昭和9年)「山樹社」を結成。当時の日本画壇を代表する作家たちの作品に不満を持ったことと、里見勝蔵、長谷川三郎、宮本三郎ら、当時前衛と呼ばれた若い洋画家たちとの交流が同社の結成に影響していたようです。

その後、日本画家・岩橋英遠らを加えた14名で「新日本画研究会」を結成。さらに同会を拡大する形で1938年(昭和13年)「新美術人協会」を発足、これは新日本画を志す有力団体として戦後1947年(昭和22年)まで続きます。

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「荘子観瀑図」と題された作品ですが、多くの観瀑図は李白が多いのですが・・・。




改めて荘子の略歴を記しておきます。

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荘子:中国戦国時代の宋の蒙(現在の河南省商丘市民権県)に生まれた思想家で、『荘子』(そうじ)の著者とされ、また道教の始祖の一人とされる人物である。姓は荘、名は周。字は子休とされるが、字についての確たる根拠に乏しい。曾子と区別するため「そうじ」と濁って読むのが日本の中国文学・中国哲学関係者の習慣となっている。『史記』には、「魏の恵王、斉の宣王と同時代の人である」と記録されています。

荘子が生まれた蒙の属する宋は当時弱小国の一つでした。荘子が生きていた時代に宋王剔成君は、弟の偃に追われ亡命し、偃がそのまま王位に就きます。しかし偃は暴逆により前286年、斉・楚・魏の連合軍により殺され、宋は分割され滅亡してしまいます。

『史記』のある挿話には、楚の威王が荘子の評価を聞き宰相に迎えようとし、礼物を持って荘子を訪ねたようです。すると荘子は「千金は大したもの、宰相は最高の地位でしょう。しかし郊祭の生贄になる牛をご覧なさい。長年、美食で養われ、錦繍で飾られ、最後には祭壇にひかれていく。その時いっそ野放しの豚になりたいと思うも、手遅れなのです。わたしは自由を縛られるより、どぶの中で遊んでいたい。気の向くままに暮らしたいのです。」といい断ったそうです。

荘子の思想はあるがままの無為自然を基本とし、人為を忌み嫌うものとされます。老子との違いは、前者は政治色が濃い姿勢が多々ありますが、荘子は徹頭徹尾にわたり俗世間を離れ無為の世界に遊ぶ姿勢で展開されています。軸となる傾向は徹底的に価値や尺度の相対性を説き、逆説を用い日常生活における有用性などの意味や意義にたいして批判的です。こうした傾向を、脱俗的な超越性から世俗的な視点の相対性をいうものとみれば、従来踏襲されてきた見方ですが、老荘思想を神秘主義思想の応用展開として読むことになります。他方で、それが荘子の意図であったかはもちろん議論の余地がありますが、近年の思想研究の影響を受けつつ、また同時代の論理学派との関連に着目して、特権的な視点を設定しない内在的な相対主義こそが荘子の思想の眼目であり、世俗を相対化する絶対を置く思想傾向にも批判的であるという解釈もなされています。

荘子の思想を表す代表的な説話として胡蝶の夢があります。
「荘周が夢を見て蝶になり、蝶として大いに楽しんだ所、夢が覚める。果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのか」。この説話の中に、無為自然、一切斉同の荘子の考え方がよく現れているとされます。近年では、方法としての寓話という観点や、同時代の論理学派や言語哲学的傾向に着目した研究もあらわれています。

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滝は文人高士の理想の対象であり、観瀑図は漢画の重要な画題とされていますが、その理由は下記のようです。

「高節の士の瀑布を観るの図にして、塵世を離れて自然の大観に対するさまを画とせるものなり。支那日本共に古くより之を好個の画題となす。」、
「李白の如きよく観瀑を図せらる。」、
「高士が世塵を離れ、山中の名瀑を観、悠々自適するの図、古来描かるゝもの極めて多い。」と古来より記せられているようです。

  

上記や下記写真のような印章は福田豊四郎の作品では滅多見られません。画集や郷土館の資料にもないでしょう。

  

貴重な作品であり、福田豊四郎と初期の作としては保存状態もよく、作品の出来も良いものです。
















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