夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

高取焼 肩衝茶入 江戸中期

2022-01-03 00:01:00 | 陶磁器
本日の作品は高取焼の茶入で、胴部分の黒釉に口縁部分は青白色の斑釉が景色をなしており、糸切底は風趣のある景色となっています。高取焼の時代区分では遠州高取か小石原高取に属する時代の作と推定していますが、定かではありません。



高取肩衝茶入 江戸中期
仕覆三種 二重箱
胴径51*底径31~33*高さ73



髙取焼は幾度も移窯・増窯を経てきた窯で、その変遷に伴い作風にも違いが見られるため、これらの変遷は、遠州髙取、小石原髙取、東山髙取、西山髙取の5期に分類されています。



さて、久方ぶりの高取焼なので窯の歴史の復習です。

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古髙取:高取焼は元々、福岡県直方市にある鷹取山の麓にて焼かれており、朝鮮出兵の際に黒田長政が陶工、八山(日本名・八蔵重貞)を連れ帰って焼かせたのが始まり。開窯は1600年と言われている。窯場には永満寺・宅間窯、内ヶ磯(うちがそ)窯、山田窯があり、これらを「古高取」と呼んでいる。

①古髙取:永満寺宅間窯

髙取焼の第1番目の窯で、藁灰釉や飴釉の掛かった、素朴で力強く、伸び伸びとした作品が伝世しています。窯が開かれたのは西暦1606年のころとされる。窯址の調査報告書によると大小の碗類や皿、鉢、壺、甕、片口、瓶、擂鉢などの器も多く出土しています。釉薬の特徴は、窯変により釉薬が海鼠(なまこ)の体表を見るように青白く呈色する例を数多く見受け、「青海鼠」の名称で呼ばれています。

窯址は福岡県直方市大字永満寺宅間(福岡藩の出城の一つだった鷹取城の南山麓あたり)にありましたが、現在は石碑のみがそこに窯があったことを示しています。

②古髙取:内ヶ磯窯

髙取焼の第2番目の窯で、慶長19年に鷹取山の南ふもとの内ケ磯(直方市頓野内ケ磯釜の尾)に移転した。「内ケ磯窯」は豪放かつ大胆な織部好みの意匠で、ロクロによって成形された真円にヘラで歪みを加えており、今日の視点から見れば芸術性豊かで興趣をそそる志向があるが、その奥に隠された思想により御用窯廃絶の憂き目に遭遇する事になった。歪みや箆削りなど作為性を強調する桃山様式の焼物が多く伝世しています。

*この内ヶ磯窯の跡地から、当時日本一の茶匠として知られ、漫画『へうげもの』の主人公でもある古田織部が流行させた「織部好み」と呼ばれる斬新なスタイルの焼きものや、黒田家のふるさとである岡山県で焼かれた「備前焼」とよく似た焼きものが、たくさん出土しています。こうした焼きものは、ふつうの職人ではとても焼けないような高い技術を必要とし、古田織部や黒田家の関与が推測されます。しかしその後、古田織部はあまりに大きな影響力をもったため、徳川家から謀反の疑いをかけられて切腹することになり、また当の黒田家も同じように幕府に監視され、いろんな記録が抹消されています。資料がないことから高取焼については間違った解説で伝えられていることも多く、いったいどんな人々がこれをつくったのか、どうして直方の山奥でこんなお宝をつくることができたのか、など、いまだに未解明の謎が多いとされています。

窯の構造・規模は、焼成室14室、焚口1室をそなえた段階式連房登窯で、全長四6.5メートルの大規模な窯です。髙取焼研究に重要な影響を与えた窯で、現存する髙取焼の中でも、最も多くの作品が伝わっています。出土陶片から窺えるこの窯の製品は多岐に及び、茶入や茶碗、水指などの茶陶関係の製品以外に、大小の皿、鉢、擂鉢、壺、片口、徳利などの日常雑器、陶人形、漁具、筆立、水滴など生活全般にわたっています。

窯址は、鷹取山の北を西流する福地川の渓谷を数キロメートル入った尾根の上に位置したところにありましたが、その場所にダムを建設することになったため、大規模な発掘調査を行った後、状態を損なわないよう埋め戻され、今はダムの下に沈んでいます。

以上のニケ所の窯で作られた陶器をとくに「古高取」と総称する場合があります。

③古髙取:山田窯
元和9年、黒田長政が没すると、髙取八蔵(八山)らが朝鮮への帰国を願い出て二代藩主忠之の勘気を被り、寛永元年(1624)、扶持を召し上げられ嘉麻郡上山田村へ蟄居させられました。このころ朝鮮側から、文禄・慶長の役で連行された朝鮮人を返還せよとの働きかけが行われていた。八蔵もこれに応じたものと考えられる。

少数の門弟らとともに、日常身辺の焼物を焼いたと伝えるのがこの山田窯で、藩の庇護がなくなったため、高級茶器などは見られず、日用の雑器が多い。作風は李朝の特徴を残した、大らかで豪壮なものであったと伝えられます。窯址は、山田市大字上山田字木城にあったとされていますが、現在は戦時中の石炭採掘により、一帯はボタの捨て場所となり、完全に埋没しています。

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遠州髙取:江戸時代には黒田藩の御用窯として繁栄、元和年間には唐津からの陶工を招き、技術を向上させている。そして寛永年間に入ると、2代藩主黒田忠之は小堀政一(遠州)と交流を深め、遠州好みの茶器を多く焼かせた。それが縁で、遠州七窯の一つに数えられ、茶陶産地として名を高めることとなった。この頃の中心は白旗山窯で、遠州好みの瀟洒な茶器は「遠州高取」と呼ばれた。

④遠州高取:白旗山窯
山田村へ蟄居を命じられてから6年、寛永7年(1630)、帰参を許された髙取八蔵(八山)らは、穂波郡合屋川内中村(現在の飯塚市幸袋大字中字野間)の白旗山の麓で新たに築いたのが白旗山窯です。この頃、八山父子は京都伏見の小堀遠州のもとへ茶器制作の指導を受けに行き、生産の主体は茶器におかれます。遠州好みの「綺麗寂び」を体した茶陶を生産したので、この時代の作品を遠州髙取と呼び、染川・秋の夜・横嶽など多くの名品が生まれました。

「遠州高取」になると器は端正になり、古高取とは対照的に瀟洒、風流人好みの作品が焼かれるようになった。華やかな釉調と軽やかな姿形をした瀟洒な茶陶は、当時の国焼にはない独自の特徴をそなえており、特に釉薬の美しさは、江戸時代の京都の名工野々村仁清も写したと伝えられます。窯址は、白旗山の北麓にある撃鼓神社(別名高宮権現)の境内の馬場脇あたりに位置していますが、現在は周りに民家もあるため発掘調査を行った後埋め戻されています。

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小石原髙取、東山髙取、西山髙取:その後、八山の孫の八郎が高取焼第5窯として小石原で小石原焼きを始め(小石原高取)、より繊細な作品が多く焼かれた。以後は、福岡の大鋸谷に移転(御庭高取)、18世紀には「東皿山」と「西皿山」に分けられ、細分化されていった。今日では数カ所の窯元が至る所に残っており、廃窯した窯場にも再び火が灯ったりと、再興している。

⑤小石原高取:小石原鼓窯
寛文5年(1665)、窯は小石原村の鼓に移転、またその後は藩主の御用窯として福岡城下にも窯が開かれ、ニカ所で操業された。初代八蔵重貞亡きあと長男八郎貞清病弱のため次男八蔵貞明が二代を継ぎ、上座郡鼓村釜床(現在の朝倉郡東峰村大字小石原鼓釜床)に築いたのが小石原鼓窯です。この時代に焼かれた作品は、一般に「小石原髙取」と呼ばれています。

明治4年(1871)、廃藩置県にともない藩窯としての役目を終え廃窯しましたが、昭和32年(1957)に髙取静山氏により再興を果たしています。窯址は、現在も髙取家(小石原鼓釜床)の家屋の裏山に遺っています。

「小石原高取」の頃になると技術は爛熟し、「遠州高取」より更に繊細な作風となっている。なお、小石原高取は民窯の小石原焼に多少の影響を与えている。今日の作風は小石原高取以後の技法で、使用する釉薬は多い。個性的な釉薬が多く、高取黄釉、春慶釉、高宮釉、道化釉、ふらし釉、真黒釉などがある。

⑥小石原高取:小石原中野窯
小石原鼓窯が開窯した後も白旗山窯はしばらく存続しており、八山の嫡子で病弱だった八郎右衛門貞清の次男八之丞が住居していて、そこから鼓村へ掛け勤めを行っていましたが、寛文9年に小石原村中野(現在の東峰村大字小石原皿山)へ移り住み、廃藩の明治4年まで小石原鼓窯と東皿山窯へ掛け勤めを行いました。小石原中野窯の原窯とされる中野上の原窯の窯址は現在も小石原皿山に遺っており、草で覆われてはいますが、その古跡を窺うことができます。

⑦大鋸谷窯
元禄元年前後に福岡城の南(早良郡田島村抱大鋸谷)に築窯され、元禄17年の廃窯までおよそ20年間活動したのがこの大鋸谷窯です。この窯では藩主綱政みずから筆をとって茶碗に絵付けを行い、あるいは素焼きの茶器を上方に送って宮崎友禅に好みの下絵を描かせたといいます。確かな所在や出土遺物についてはほとんど不明で、伝存する陶片の多くは細かい破片の状態でしか残っていないようです。

⑦東山高取:東皿山窯
享保というと幕府による「享保の改革」が有名ですが、諸大名の財政事情も厳しかったようです。このとき早良郡麁原村上の山(現在の福岡市早良区西新)に増窯されたのが東皿山窯で、一般に「東皿山」と呼ばれています。主に茶道器を製造する窯場でした。この時から廃藩置県までのおよそ150年間にわたって活動し、髙取家の歴代は小石原鼓窯に半年、東皿山窯に半年と掛け勤めしていました。現在、窯址付近には人家が建ち並び、その古跡を窺うことはできません。

⑧西山高取:西皿山窯
次に東皿山の西に増窯されたのが西皿山窯で、一般に「西皿山」と呼ばれています。この窯は一般の庶人を対象とした徳利、食器、甕、すり鉢等を製造する窯場だったとされています。

*廃藩置県により多くの御用窯が廃窯となりましたが、小石原の窯は現在に至るまで生産活動を持続しています。

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本作品は「古高取」と称して売られていましたが、「小石原高取」に分類されるかもしれません。希望的観測でせいぜい「遠州高取」かな。

近代の高取焼の茶入れなどの作品は意図的に白釉を正面に垂れ流したりとか作為的ですが、少なくても本作品にはそのような作為性は見られません。また糸切底は独特のもので、風趣があります。



お仕覆は三種・・、間道・福寿字文模様・・。

*仕覆のサイズは三種のうち二種はサイズがちょっと大きいので古来のものではないと推察されます。お飾りかな・・・??



お仕覆の生地による分類は当方では詳しくありません。



古い生地はちょっと痛んでいるようですが、この茶入れにあったお仕覆を誂えるのも茶人の愉しみとされます。



前の所有者はこれらをまとめて収納できるように二重箱を誂えています。



近年になってからのものでしょうが、誂はいつ頃に仕立てのでしょうか? 



古高取とされていましたが、下手な箱書きはない方がいい・・




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