磁州窯白地草紋鉄絵梅瓶
胴幅:165*高さ292
上部については口縁以外は白化粧の上に黒泥で文様を描いた白地鉄絵で下部は鉄釉を高台の中まで掛けられている。
磁州窯の製品は白化粧した素地に鉄絵で文様を描くこのような白地鉄絵という装飾技法であり、この種の作品が登場するのはより高度な掻き落としよりも遅い。
掻き落としは至難な技法故に多くの需要に応える為には工程の合理化が必要で、白地鉄絵が生まれた背景にはこのような経過が推測される。
凝った作ではないが野趣あふれる作行といえる。
地釉草紋鉄絵高麗梅瓶
胴幅185*高さ337
絵高麗ということで出品されていたが絵高麗とは朝鮮、高麗の鉄絵青磁の日本における呼び名。絵高麗の名がいつ始まったかは定かではないが、茶人が命名したことは明らかである。
文禄・慶長の役(1592~98)以後、茶事に朝鮮のものが流行し、朝鮮から渡ってきた黒絵のあるものを高麗と称したといわれる。
その後、朝鮮だけでなく中国から同じような器が渡来したため、絵高麗はその産地は問題とせず、やや粗い白化粧の陶胎の土に、鉄描の黒い絵のある陶器を広くさすようになった。
今日では、中国の磁州で焼かれた同様の器に使われることが多い。中国の宋代(11世紀ごろ)には焼き物の技術が発達し、鉄分の多い赤土で文様を描いた上に、青磁釉をかけて焼く鉄青磁が各地で行われた。
釉は酸化焼成のためやや黄褐色を帯び、赤土で描かれた絵は黒または黒褐色に変化する。
この焼成技術は、やがて朝鮮へ渡ったが、象嵌青磁のほうが盛んで、鉄青磁は傍流とされた。しかし、13世紀に入るとおおいに利用されるようになった。
本作は鉄で草花を稚拙と思える味のある描き方がされている。これが本作の魅力。
二間続きの居間に隣り合わせに「梅瓶」なるものを飾ってみました。
寂しいので両方に、庭に咲いていた花を生けてみました。
時代は不詳で非常に廉価な壺でしたが、結構気に入っています
二間続きは改修のときの狙いで、仕切りを雪見障子にしました。
玄関側から裏庭の蔵まで見通せる狙いです。
しばらくして、袱紗がぬれてきて、水漏れ発覚
補修材で補修は可能ですが、このような水漏れを良しとすることがあります。
本体に汗をかき、少し濡れるくらいが涼しげで良しとするとのこと。
さすがに義母が、これは「まずいわね」だと
磁州窯:中国、河北省磁県彭城鎮を中心とした華北最大の窯場。
特定の窯の名称ではなく、この地域でつくられた製品の総称として用いられることが多い。
隋代に隋青磁を産するが、一般に唐末期より磁州窯磁としての製品が盛んに焼かれるようになる。
宋代から元代にかけその最盛期を迎え、明・清代を経て現在に至っている。
素地は灰色であるために、白土を化粧掛けし、透明釉を施して焼き上げた。白無地のものを白釉陶と呼び、鉅鹿(きよろく)とも称す。
その白化粧をヘラで掻き陰刻などを施したものを白地掻落としと呼ぶ。磁州窯の中で最も評価が高いのが、白黒掻落としであり、これは白化粧ののち黒泥を掛け、その肌の黒泥のみを掻き落として白黒の文様を描き出したものである。
その他、白化粧の上に黒泥で文様を描いた白地鉄絵、緑釉を施した緑釉手、宋三彩、宋赤絵、練上手、墨流し手、柿釉手、飴釉手、河南天目、油滴天目といった様々な技法をもち、河北・河南・山西・山東各省ほとんどの民窯で焼かれた。
梅瓶(メイビン):小さい口造りの丈長の瓶の事。酒を入れた瓶。
形も時代と共に少しずつ変り、13世紀の宋・磁州窯に多く見られるように、口造りは小さく低く、肩の張らない卵形で、下は直線的に順次細る、
頸は猪首形で胴継ぎの成形法。14世紀になると元青花の梅瓶のように、肩が張り、下はすぼまり、裾でまた外に広げたもの、又は胴の下部を八面体に削ったもの、頸は中央部がくぼんで上下が拡がる。
底は必ず露胎でロクロ目が残るなど、やはり胴継ぎの成形法。15世紀の明代より見られる形で、細長く感じられ、頸も細長く、上部が下部より太い。底には釉薬を施す。胴継ぎ成形法でなく、ロクロに依る引き上げ法。
胴幅:165*高さ292
上部については口縁以外は白化粧の上に黒泥で文様を描いた白地鉄絵で下部は鉄釉を高台の中まで掛けられている。
磁州窯の製品は白化粧した素地に鉄絵で文様を描くこのような白地鉄絵という装飾技法であり、この種の作品が登場するのはより高度な掻き落としよりも遅い。
掻き落としは至難な技法故に多くの需要に応える為には工程の合理化が必要で、白地鉄絵が生まれた背景にはこのような経過が推測される。
凝った作ではないが野趣あふれる作行といえる。
地釉草紋鉄絵高麗梅瓶
胴幅185*高さ337
絵高麗ということで出品されていたが絵高麗とは朝鮮、高麗の鉄絵青磁の日本における呼び名。絵高麗の名がいつ始まったかは定かではないが、茶人が命名したことは明らかである。
文禄・慶長の役(1592~98)以後、茶事に朝鮮のものが流行し、朝鮮から渡ってきた黒絵のあるものを高麗と称したといわれる。
その後、朝鮮だけでなく中国から同じような器が渡来したため、絵高麗はその産地は問題とせず、やや粗い白化粧の陶胎の土に、鉄描の黒い絵のある陶器を広くさすようになった。
今日では、中国の磁州で焼かれた同様の器に使われることが多い。中国の宋代(11世紀ごろ)には焼き物の技術が発達し、鉄分の多い赤土で文様を描いた上に、青磁釉をかけて焼く鉄青磁が各地で行われた。
釉は酸化焼成のためやや黄褐色を帯び、赤土で描かれた絵は黒または黒褐色に変化する。
この焼成技術は、やがて朝鮮へ渡ったが、象嵌青磁のほうが盛んで、鉄青磁は傍流とされた。しかし、13世紀に入るとおおいに利用されるようになった。
本作は鉄で草花を稚拙と思える味のある描き方がされている。これが本作の魅力。
二間続きの居間に隣り合わせに「梅瓶」なるものを飾ってみました。
寂しいので両方に、庭に咲いていた花を生けてみました。
時代は不詳で非常に廉価な壺でしたが、結構気に入っています
二間続きは改修のときの狙いで、仕切りを雪見障子にしました。
玄関側から裏庭の蔵まで見通せる狙いです。
しばらくして、袱紗がぬれてきて、水漏れ発覚
補修材で補修は可能ですが、このような水漏れを良しとすることがあります。
本体に汗をかき、少し濡れるくらいが涼しげで良しとするとのこと。
さすがに義母が、これは「まずいわね」だと
磁州窯:中国、河北省磁県彭城鎮を中心とした華北最大の窯場。
特定の窯の名称ではなく、この地域でつくられた製品の総称として用いられることが多い。
隋代に隋青磁を産するが、一般に唐末期より磁州窯磁としての製品が盛んに焼かれるようになる。
宋代から元代にかけその最盛期を迎え、明・清代を経て現在に至っている。
素地は灰色であるために、白土を化粧掛けし、透明釉を施して焼き上げた。白無地のものを白釉陶と呼び、鉅鹿(きよろく)とも称す。
その白化粧をヘラで掻き陰刻などを施したものを白地掻落としと呼ぶ。磁州窯の中で最も評価が高いのが、白黒掻落としであり、これは白化粧ののち黒泥を掛け、その肌の黒泥のみを掻き落として白黒の文様を描き出したものである。
その他、白化粧の上に黒泥で文様を描いた白地鉄絵、緑釉を施した緑釉手、宋三彩、宋赤絵、練上手、墨流し手、柿釉手、飴釉手、河南天目、油滴天目といった様々な技法をもち、河北・河南・山西・山東各省ほとんどの民窯で焼かれた。
梅瓶(メイビン):小さい口造りの丈長の瓶の事。酒を入れた瓶。
形も時代と共に少しずつ変り、13世紀の宋・磁州窯に多く見られるように、口造りは小さく低く、肩の張らない卵形で、下は直線的に順次細る、
頸は猪首形で胴継ぎの成形法。14世紀になると元青花の梅瓶のように、肩が張り、下はすぼまり、裾でまた外に広げたもの、又は胴の下部を八面体に削ったもの、頸は中央部がくぼんで上下が拡がる。
底は必ず露胎でロクロ目が残るなど、やはり胴継ぎの成形法。15世紀の明代より見られる形で、細長く感じられ、頸も細長く、上部が下部より太い。底には釉薬を施す。胴継ぎ成形法でなく、ロクロに依る引き上げ法。