松に鶴図 岡本秋暉筆
絹本着色絹装軸修復時代箱入
全体サイズ横672*縦1890
画サイズ横515*縦1265
本作品はネットオークションにて購入しました。松に鶴を描いた大幅です
岡本秋暉の作風を表した一品といえます
背景の描き方が未だ稚拙に感じられるところが特徴ともいえます。
シミ痕が惜しいが真作の佳品
小田原の生んだもっとも誇るべき画家です。
渡辺崋山と岡本秋暉は友人の間柄であったようです。渡辺崋山が国事に座して国元へと送られるさいには、直ぐに家を飛び出し渡辺崋山の駕篭を日夜走って追い付いた後も、面会が許されなかったために、さらに駕篭を追い掛けて東海道を下ってゆく話は有名で、渡辺崋山と岡本秋暉の親交の厚さを物語っています。
岡本秋暉:生没年には諸説あり、文久2年没(1862年)、享年57歳で没したという説が有力です。
名は隆仙、字は柏樹、通称祐之丞。号は「秋暉」、晩年は「秋翁」と号しました。
下記の写真は左が本作品の落款と印象です。右が参考落款「秋草小禽図」の印象と落款です。同一の印章の写真は撮影未了のため後学とします。
小田原藩大久保侯の家臣で、画を大西圭齋、渡辺崋山に師事したといわれ、椿椿山とともに崋山十哲に数えられています。
一説には、崋山とは絵画を通じた友人関係であり、師弟関係はなかったともいわれています。いずれにせよ、谷文晃に端を発する関東文人画系に位置付けられる画家です。
画風は沈南蘋によって日本に伝えられた明清画、円山応挙に代表される写生画、渡辺崋山、弟子である椿椿山によって描かれた崋椿系など、それぞれ画趣を想起させる作品、更には、伊藤若沖の動植採絵に描かれる奇想を彷彿とさせる作品を遺しています。
極彩色の花鳥画を得意とし、独特の濃密な作風は、南蘋派・円山派。崋椿系の影響を受けつつも一線を隠し、特異な趣きを持ちます。
特に孔雀の描写には定評があり、「若沖の鶏」、「光起の鶉」、「租仙の猿」などと並んで「秋暉の孔雀」と通り名で称さていますが、残念ながら本作品は、孔雀の作品ではなく鶴です
絹本着色絹装軸修復時代箱入
全体サイズ横672*縦1890
画サイズ横515*縦1265
本作品はネットオークションにて購入しました。松に鶴を描いた大幅です
岡本秋暉の作風を表した一品といえます
背景の描き方が未だ稚拙に感じられるところが特徴ともいえます。
シミ痕が惜しいが真作の佳品
小田原の生んだもっとも誇るべき画家です。
渡辺崋山と岡本秋暉は友人の間柄であったようです。渡辺崋山が国事に座して国元へと送られるさいには、直ぐに家を飛び出し渡辺崋山の駕篭を日夜走って追い付いた後も、面会が許されなかったために、さらに駕篭を追い掛けて東海道を下ってゆく話は有名で、渡辺崋山と岡本秋暉の親交の厚さを物語っています。
岡本秋暉:生没年には諸説あり、文久2年没(1862年)、享年57歳で没したという説が有力です。
名は隆仙、字は柏樹、通称祐之丞。号は「秋暉」、晩年は「秋翁」と号しました。
下記の写真は左が本作品の落款と印象です。右が参考落款「秋草小禽図」の印象と落款です。同一の印章の写真は撮影未了のため後学とします。
小田原藩大久保侯の家臣で、画を大西圭齋、渡辺崋山に師事したといわれ、椿椿山とともに崋山十哲に数えられています。
一説には、崋山とは絵画を通じた友人関係であり、師弟関係はなかったともいわれています。いずれにせよ、谷文晃に端を発する関東文人画系に位置付けられる画家です。
画風は沈南蘋によって日本に伝えられた明清画、円山応挙に代表される写生画、渡辺崋山、弟子である椿椿山によって描かれた崋椿系など、それぞれ画趣を想起させる作品、更には、伊藤若沖の動植採絵に描かれる奇想を彷彿とさせる作品を遺しています。
極彩色の花鳥画を得意とし、独特の濃密な作風は、南蘋派・円山派。崋椿系の影響を受けつつも一線を隠し、特異な趣きを持ちます。
特に孔雀の描写には定評があり、「若沖の鶏」、「光起の鶉」、「租仙の猿」などと並んで「秋暉の孔雀」と通り名で称さていますが、残念ながら本作品は、孔雀の作品ではなく鶴です