夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

竹樹秋雨・深壑萬松図 双福 斎藤畸庵筆 1868年(慶応4年) その4

2024-12-12 00:01:00 | 掛け軸
雪の降り始めた中でも新たな男の隠れ家(その4)の改修工事は続いています。



ストライプになる外壁は順調に進んでいます。



汚れやすい部分は色が濃く、その他は白っぽい色で仕上げています。



改修工事なので既存のサッシュ高さに合わせるのが難しかったのですが、縦貼りと横貼りを併用してなんとか割り付けました。



車庫のシャッターはオーバースライダーとして、表面はヒバを貼る予定です。



さて本日の作品紹介は久方ぶりに斎藤畸庵の作品紹介です。

斎藤畸庵は名誉や利益には一切興味がなく、世の中の流れには乗らず一貫して風流人として自身の人生を楽しみ、かつ確かな技量があるにも関わらず、南画家としては地味な存在でした。



竹樹秋雨・深壑萬松図 双福 斎藤畸庵筆 1868年(慶応4年) その4
絹本水墨軸装 軸先木製 合箱 
全体サイズ:縦1830*横480 画サイズ:縦1160*横370



いい作品をみかけると入手しようと試みていますが、意外に人気が高く、高価な時には諦めています。それでも本作品で本ブログでの紹介は4作品目となりました。



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斎藤畸庵 :(1805-1883)文化2年に温泉街として有名な兵庫県城崎町の旅館「伊勢屋」に生まれ名を淳、字を仲醇、幼名を小太郎(後に文之助)といい、別号を息軒老人と称しました。幼くして耳を患ったことから詩や絵画に心を寄せるようになったとされています。文政3年、16歳の時に画家を志して京都に上り、南画界の重鎮 中林竹洞の門下に入り画法を学びます。



嘉永6年、49歳の時に竹洞の下を離れ、播州~阿波~讃岐~長崎と諸国遊歴の旅に出て、晩年は東京の神田駿河台に住まいしました。そして明治16年4月1日、2日の両日 長野県富士見町の「三光寺」での書画会に出席の後、甲府に赴き4月15日 甲府の旅館「佐渡幸」にて79歳で亡くなりました。



畸庵の描く山水画は神経質な細い線と点描表現、緻密な細かい筆致で描かれているのが特徴で一部の愛好家に大変人気があり、素晴らしい作品が多いのですが、畸庵自身は名誉や利益には一切興味がなく、世の中の流れには乗らず一貫して風流人として自身の人生を楽しんだので、確かな技量があるにも関わらず、南画家としては地味な存在でした。しかし、近年その作品は高く評価され隠れた大家の一人として挙げられています。

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補足説明
晩年の竹洞の元で画、詩文を学び、嘉永6年、師・竹洞の死とともに遊歴の旅に出ます。時に畸庵、49歳。竹洞の盟友山本梅逸もその時、郷里の名古屋に戻っているので、いかに竹洞の人徳が高かったかがわかります。遊歴の旅は、郷里から四国、九州長崎へ、長崎来舶清人、各地の文人たちと交わったといいます。後、東京に居を移し神田駿河台に住まいしました。



彼の作品には、清浄な空気が漂っており、アブストラクトに近いような細かい描写は、師・竹洞の繊細さをより心の世界に閉じ込めた感があります。世の中が、開かれていく時代に一人、名利と離れ江戸の文人の世界に遊んだ文人と言えます。現在は知る人も少ない画家ですが、彼自身も著名になることに繋がることを別に求めていなかったような気がします。殺伐とした現代になって高く評価されている理由が充分に理解できる画家です。



 江戸の半ばから維新にかけてようやく庶民にまで詩書画が、拡がり有名無名の文人たちが日本の山海市井を遊歴する土壌ができた矢先に文明開化になりました。絵画史の中で、変わりゆく社会に対する孤独感の中、南画を描き続けた画家の一群を「遅れてきた文人」ともいえます。文人画は端的にいえば詩心を絵画化したものであると言えるでしょう。



文人画家の最高の褒め言葉として「詩書画三絶」という言葉があります。まず詩があり書がありその上の画であり、そのいずれもが諸人を絶しているほど素晴らしい、という意味です。鑑賞者の側から考えると、明治期には、まだ詩を書き、詩を読む市井の人々がいました。それが、詩は、読めるが、書けなくなり、そして美の愛好家たちは、読むことも書くことも覚束ない現代にいたっております。



芸術は、それを理解する大多数の人々がいてこその芸術であり、「遅れてきた文人」たちは、理解者少なき芸術家です。現代は文人画の受難の時代です。というより文人画の存続の危機と言えるでしょう。



この作品を描いた頃の斎藤畸庵は長期にわたる九州遊歴から帰還しており、50代後半から60代にかけて、地元・城崎を拠点に活動しました。幕末から明治へ移り変わる混乱した時代でしたが、畸庵にとっては、但馬、丹後の寺院に障壁画の大作を描くなど充実した時期であったようです。

この作品以降の70代に入ると、畸庵は東京へ移住していますが、緻密でありながらも俗っぽさがないと評価された畸庵の晩年の画境に達しています。



右幅の賛の漢詩は五言絶句でしょうか? 「竹樹秋雨以 人家□寒緑 晩晴開閖□ 詩旦来偏遠 戌辰秋日□□并題」と記されているようです。
ここでの戌辰とは斎藤畸庵の年齢から考慮すると、1868年のことで斎藤畸庵が63歳の頃となります。



「亭榭□深壑 萬松欝作林 吋□稷々響 □和乱泉□ 戌辰秋日七月□□并題」とあるようです。

なおこの年は「慶応4年」として始まり、9月に「明治」に改元、江戸が7月に東京と名を変え、新旧が混在する不思議な年だったようです。



齋藤畸庵に関する展覧会は、近年では平成 29 年に豊岡市立歴史博物館で企画展「斎藤畸庵の軌跡―城崎が生んだ幕末~明治の南画家―」が開催されています。

畸庵は兵庫県出身の画家ですが、兵庫県内でもご存知の方は少ないのではないでしょうか。実は城崎のある但馬だけでなく、姫路、明石、神戸、洲本などに逗留し各地の文化人たちと交流しており、「但馬の画家」にとどまらず「兵庫県の画家」というにふさわしい人物といえるのですが・・。



齋藤畸庵の描く世界は実に魅力的で、明治以降の南画家の中で富岡鉄斎、天野方壺らとともにファンの多い画家の一人です。



意外に小ぶりな双幅の作品ですが、現在の住宅事情にはこの程度の大きさが飾るには限界でしょうか? ひと作品は手元において飾りたい画家のひとりです。



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