夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

五行書 勝海舟筆

2020-07-30 00:01:00 | 掛け軸
ここ一か月ほどブログのアクセス数が少しながら上昇しているようですが、いいのかどうか複雑な心境です。あくまでも本ブログの目的は作品の整理であって、自分のデータにいつでもアクセスできるというブログのメリットから利用しています。マイナーな内容、碌に推敲していない文章にアクセスが増えるのはいかがなものだろうか??

展示室は収納用の棚増設のため、大黒様は移動して展示しています。



福聚大黒天尊像 その2 平櫛田中作
共箱
高さ165*幅180



改装中もご利益がありますようにと昨日はサマージャンボ宝くじを購入・・・

さて、本日は書の作品、幕末の書なら西郷隆盛(南洲)、勝海舟、山岡鉄舟だと思います。他にも犬養木堂らがいますが、明治の政治家ではこれらのほかには副島種臣以外は見るべき書はないかもしれませんね。



五行書 勝海舟筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1750*横660 画サイズ:縦110*横550



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勝 海舟(かつ かいしゅう):1823年3月12日〈文政6年1月30日〉~1899年〈明治32年〉1月19日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の武士(幕臣)、政治家。位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵。初代海軍卿。

山岡鉄舟、高橋泥舟とともに 幕末の三舟と呼ばれています。幼名および通称は麟太郎(りんたろう)。諱は義邦(よしくに)、明治維新後改名して安芳(やすよし)。これは幕末に武家官位である「安房守」を名乗ったことから勝 安房(かつ あわ)として知られていたため、維新後は「安房」を避けて同音(あん−ほう)の「安芳」に代えたもの。勝本人は「アホゥ」とも読めると言っている。海舟は号で、佐久間象山直筆の書「海舟書屋」からとったものである。海舟という号は本来誰のものであったかは分からないという。

曽祖父は視覚障害を持ち、新潟の農民に生まれ、江戸に出て米山検校となる。 祖父はその九男男谷平蔵。 父は男谷平蔵の三男、旗本小普請組(41石)の勝小吉、母は勝元良(甚三郎)の娘信。この家族は最近NHKで父を中止にして作られた連続ドラマになっていましたね。

幕末の剣客・男谷信友(精一郎)は血縁上は又従兄で、信友が海舟の伯父に当たる男谷思孝(彦四郎)の婿養子に入ったことから系図上は従兄に当たる。家紋は丸に剣花菱。

10代の頃から島田虎之助に入門し剣術・禅を学び直心影流剣術の免許皆伝となる。16歳で家督を継ぎ、弘化2年(1845年)から永井青崖に蘭学を学んで赤坂田町に私塾「氷解塾」を開く。

安政の改革で才能を見出され、長崎海軍伝習所に入所。万延元年(1860年)には咸臨丸で渡米し、帰国後に軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設。戊辰戦争時には幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張し実現。

明治維新後は参議、海軍卿、枢密顧問官を歴任し、伯爵に叙せられた。 李鴻章を始めとする清の政治家を高く評価し、明治6年(1873年)には不和だった福沢諭吉(福澤諭吉)らの明六社へ参加、興亜会(亜細亜協会)を支援。また足尾銅山鉱毒事件の田中正造とも交友があり、哲学館(現:東洋大学)や専修学校(現:専修大学)の繁栄にも尽力し、専修学校に「律は甲乙の科を増し、以て澆俗を正す。礼は升降の制を崇め、以て頽風を極(と)む」という有名な言葉を贈って
激励・鼓舞した。

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残念ながら真贋も含めて、現在なんという漢詩なのか解読できていません。

最後には「庚午:1870年(明治2年)?仲□片桐且元・・??」 明治維新直後の書?  片桐且元は豊臣方から徳川方に転じた武将ですが、それには止むえない事情があったようです。どうも勝海舟にも通じるものがありそうです。

  

江戸城無血開城に際して、高橋泥舟の推薦により徳川慶喜から使者として命じられた山岡鉄舟が駿府へ交渉へ行く前に勝海舟と基本方針を擦り合わせしています。勝と山岡はこの時初対面であり、さらに海舟は鉄舟が自分の命を狙っていると言われていましたが、面会して鉄舟の人物を認めています。打つ手がなかった海舟はこのような状況を伝征討大総督府参謀の西郷隆盛宛の書を授けています。

*よく山岡は勝海舟が派遣した使者と説明されていますが、徳川慶喜が直々に命じた使者が正しいとされています。

予定されていた江戸城総攻撃直前には海舟が西郷と会談、江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行い、結果として江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救われています。



縁の深い勝海舟と山岡鉄舟ですが、当方には山岡鉄舟の書画が亡くなった家内の実家に遺されています。

三行書 山岡鉄舟筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横(未測定 大幅)



明治維新の際には、このような俊英なる人物らが日本の行末を案じて、軌道修正を図ったことが現在の礎となっていますが、今の日本がどうなのでしょうか?


 

書の内容は皆目わかりません。なにやら片桐且元に関する内容らしいのですが・・。

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片桐且元(かたぎり かつもと):安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。賤ヶ岳の七本槍の一人。 豊臣家の直参家臣で、豊臣姓を許される。関ヶ原の戦い以降は家老として豊臣秀頼に仕えていたが、方広寺鐘銘事件で大坂城を退出して徳川方に転じた。且元系片桐家初代で、大和国竜田藩初代藩主となる。弟に同国小泉藩主となった片桐貞隆がいる。

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展示室の飾って、納得のいく作品かどうか見極めている??? 

このような読みも内容も解らず、まして真贋も不明な作品を投稿してアクセスが増えるの複雑な心境・・。



幕末にはどうしこんなに優秀な人材が輩出されてきたのでしょうか? 不思議です。現在は人材難、もとい人財難・・。



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
海舟と鉄舟  (もののはじめのiina)
2021-07-13 09:06:07
> ブログのアクセス数が少しながら上昇しているようですが、いいのかどうか複雑な心境です。
気にしない気でも気にはなるものです。

幕末の書なら西郷隆盛、勝海舟、山岡鉄舟がいいとされていますね。

海舟の詩です
      寝て働きもせぬ御褒美は 蚊族となりて亦血も吸ふ
      賊軍の大将から一転して「華族」になって人民の血と汗とを黙って頂戴していると皮肉をいってます。

鉄舟の方は、
      今までは人並みの身と思ひしが 五尺に足らぬししゃくなりとは
      「子爵」と「四尺」をかけてます。

明治20年5月、勲三等に叙せられて、拒否してます。
勲章を持参した井上馨に、「お前さんが勲一等で、おれに勲三等を持って来るのは少し間違ってるじゃないか。(中略)維新のしめくくりは、西郷とおれの二人で当たったのだ。おれから見れば、お前さんなんかふんどしかつぎじゃねえか」と啖呵を切ったとか・・・。
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勝海舟と山岡鉄舟 (夜噺骨董談義)
2021-07-14 07:17:27
西郷隆盛、勝海舟、山岡鉄舟らは実に男気のある人物ですね。逸話についてもそれをよく物語っていると思います。
書からもその気概が伝ってくるのでしょうが、当方ではなかなか解読ができないのが歯がゆいところです。
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