夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

壺屋焼 白化粧地呉須魚海老文大皿 金城次郎作

2018-02-10 00:01:00 | 陶磁器
さて、終盤を迎えている金城次郎の作品についての当方の所感の投稿です。

金城次郎はガス窯では自分の焼物が作れないと、登り窯が焚ける場所を求めて読谷村に移住しています。ガス窯による器面上の「つや」を気にしていたと伝えられていますが、要はガス窯で焼いた艶のある作品を嫌ったのでしょう。読谷村に移って以降は真っ青に発色する酸化コバルト釉には黒釉を混ぜて抑えた色調にし、クリーム色の独特の白化粧土を好んで用いています。

作品で比べてみましょう。左の作品は壺屋時代、右の作品が読谷時代と推定されます。主に魚文、海老文の作品で比較します。

ところでこの文様は金城次郎の「沖縄を象徴する魚類」ということもありますが、「子孫繁栄」を意図するということを知らない方が多いようです。これくらいは壺屋焼の常識として知っておくべきことでしょう。



作品を比べてみると大きく違う色調ですが、ここで金城次郎の大皿の作品の変遷を辿ってみたいと思います。参考とする作品は少ない数ですが当方の所蔵作品にしました。手元にある作品でないと轆轤の癖や釉薬の違いが分かりにくいからです。

壺屋時代の変遷期における作品は魚文大皿は真っ青に発色する酸化コバルトをそのものを使い、釉薬は流れているし、本体の造形も割れが入るなど荒っぽいものです。むろん搔銘の「次郎作(初期銘)」や「次」というのは一切ありませんし、共箱など論外です。



本作品のように本体が窯割れしている作品を市場に売りに出すことは壺屋焼では通常のことであったようで、窯割れの作品を専門に修理する職人もいました。金城次郎自身もこだわらかったという記事があります。



改めてまとめると、この作品は壺屋時代の作。特徴は釉薬は艶があり、釉薬の流れが見られ、本体は窯割れしているという特徴があります。



その後線彫を深くするなど、釉薬の流れを防ぐことなど改良することを試みていたようです。変遷期にはおそらく短期間でかなり何度も窯で作品を焼成して試行錯誤したように推測します。

次からはその焼成の変遷を探ってみます。

ところで修練を積んだ陶工はもはや高台の削りの癖は矯正できないものなので、そのあたりから金城次郎作と断定しています。

最初の二作品の裏側を比較しても、つまり壺屋時代も読谷村時代も銘の有無以外は裏面に大きな違いはありません。金城次郎の作品と断定する根拠のひとつです。



下記の作品は釉薬にまだ艶があり、釉薬の流れも発生しています。優れた陶工は釉薬、窯の温度など焼成毎に、窯ごとに新たな試みを行うもので、こちらも変遷期の作品と思われます。



その後釉薬などに工夫がされて、黒釉薬で酸化コバルトの発色を抑えていますが、釘彫が甘いのかまだ釉薬が若干流れていますし、本体にも割れがあります。この作品もまだ変遷期でしょう。

一部にこの頃から掻き銘のある作品もありますが、この頃も基本的にまだ銘はありません。



徐々に酸化コバルトの発色の加減が良くなり、全体の造形も良くなり、釉薬に落ち着きが見られます。

ただ釜の焼成具合のよってはまだ艶のある作品もあったようですし、艶の出るガス窯を嫌ったということは逆にガス窯で焼成した作品もあったということでしょう。この焼成具合とによる艶いうのは窯の中の位置でも違うし、焼成毎にも違う微妙なものです。



最終的には、本体の造形も安定し、釉薬全体に艶がなくなり、また釉薬の流れはなくなり落ち着いた色調の作品となります。銘は基本的にはまだありませんが、ある作品が多くなっているようです。むろんこの頃には共箱はありません。ただこの頃を境として40センチを超える大きな皿の作品は極端に少なくなります。

この後の作品は「落ち着きがある」のはいいのですが、作品数が多くなり、初期に比して出来としてはつまらなくなった思われます。その後人間国宝にもなり、作品に共箱、掻銘が入り、作品として全く見るべきものがなくなりました。

このあたりが金城次郎より他の壺屋焼家である小橋川永昌、新垣栄三郎が人間国宝としてふさわしいと言われる所以でしょう。人間国宝指定に前後して脳梗塞になったというのも金城次郎にとって不運でした。

本日新たに紹介する下記の作品は読谷村に移窯した後に作品と推察されます。かなり完成度の高い作品、というか完成度が高すぎる・・・。

壺屋焼 白化粧地呉須魚海老文大皿 金城次郎作
掻銘「次」 合箱
口径435*高台径*高さ100



おそらく99%の金城次郎のファンは共箱、掻き銘のある作品を求めるでしょうが、それは大きな間違いですと述べたい。銘や共箱のある作品にこだわる必要は一切なく、逆に銘や共箱のある以前の壺屋時代の作にこそ魅力溢れている作品が多いので、観る眼をそこに向けてほしいということです。



金城次郎本人がそのことをよく知っていたのでしょう。箱書を一部を除き自分で書かなかったようです。

「・・・大徳利 人間国宝 金城次郎作 押印」と書かれている立て板、それを脇に置いて作品を飾ってある応接室に通されたことがありますが、まことに品がないもの、立て看板を作る側も・・・。金城次郎はそういうことが実は嫌だったのでしょうね。

*作者などを記入した板を脇に作品を飾る方がいますが、これは無粋極まりないことです。解る人は一目で作品の良し悪しと産地、作者名が解るものです。むろん、いいものでなくてはいけませんが・・。



共箱を書くのも苦手だったのでしょうが、それより共箱そのものを必要ないと本人が思っていたのでしょう。銘も・・。河井寛次郎、浜田庄司は作品に銘はいれませんでした。贋作が嫌だったので共箱を作ったようですが・・。それでも銘がないゆえ、贋作が横行していますが、観る眼さえしっかりしていれば、真贋は解ってきます。世の俗人は真贋にのみこだわるようですが、民芸作品にはもともと真贋など関係なく、日常品としていいものはいい、悪いものは悪い・・・。



繰り返しますが、現在は人間国宝になってから以降の作品ばかり注目されていますが、さてそれはどうでしょう? 骨董商の作り上げた共箱や銘が評価の有無という点を気にするお方にはまともな審美眼は皆無のように思います。

河井寛次郎と浜田庄司が金城次郎について下記のように述べています。この頃の作品は壺屋時代が原点でしょう。文章の作成時期もその頃です。

河井寛次郎の金城次郎の所感
「次郎は珍らしい位よく出来た人で、気立てのよい素晴らしい仕事師である。轆轤ならばどんなものでもやつてのける。彫つたり描いたりする模樣もうまく、 陶器の仕事で出来ないものはない。中折の古帽子を此の節流行する戦闘帽風に切り取つたのを冠つて、池の縁の轆轤場に坐つて、向ふの道行く人に毎日素晴らしい景色を作つてくれて居る。」

浜田庄司の金旺次郎の所感
「沖縄壺屋の陶工、金城次郎君ほど、まちがいの少ない仕事をしてきた陶工を私は知らない。それも、ほとんど意識していない点を高く認めたい。縁あって君が十三、四才の頃から、私が壺屋の仕事場に滞在するたびに、手伝ってもらってすでに五〇年、君が魚の模様を彫っている一筋の姿を見つづけてきた。君は天から恵まれた自分の根の上に、たくましい幹を育てて、陽に向かって自然に枝が繁るように仕事を果たしてきた。次郎君の仕事は、すべて目に見えない地下の根で勝負している。これは、一番正しい仕事ぶりなので、いつも、何をしても安心して見ていられるが、こうした当然の仕事を果たしている陶工が、現在何人いるであろうか。本土での会はもちろん、海外での会の場合を想っても少しの不安もない、えがたい陶工と思う。」

日本の陶芸界には本当の陶芸家がいない。それが私が過去の作品を蒐集する本当の理由です。


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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (のぶたろう)
2022-12-30 10:15:45
大変恐縮ですが、売却での譲渡は難しいでしょうか?

是非どうぞよろしくお願い致します。
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譲渡 (夜噺骨董談義)
2022-12-31 08:29:13
ブログを観て頂きありがとうございます。
お問い合わせの件ですが、誠に申し訳ありませんが、現時点では譲渡はしておりません。
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Unknown (のぶたろう)
2022-12-31 10:38:44
これだけ大きな皿が多数揃っている金城次郎コレクションは初めてみました、展示会等で実物を見る事は可能でしょうか?
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公開 (夜噺骨董談義)
2022-12-31 15:47:46
連絡をありがとうございます。当方の作品は少しずつ蒐集したものであり、プライベートな蒐集ですので、誠に申し訳ございませんが本ブログ以外には公開しておりません。
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