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家の天井張り替えの第2段。とりあえず試験的に勝手口周りは完了。
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第2段階は中央廊下・・、いつまでかかるやら・・???
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本日の作品紹介は片山楊谷の作品です。
長崎生まれの片山楊谷(ようこく、1760-1801)は、巡遊先の一つの鳥取で多くの弟子を作り、その評判を耳にした鳥取藩池田家の分家である西館の藩主の池田冠山に引き留められ、茶頭の片山家に養子入りしています。このように望まれて鳥取藩あるいはその支藩に登用されていることは、当時の鳥取藩の文化レベルおよび経済レベルが高かったことを表しているのだろう。同時期の鳥取画壇には土方稲嶺がおり、その後継者とされる黒田稲皐は本ブログに再三登場している画家です。
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関羽図 片山楊谷筆 天明年間
紙本水墨軸装 軸先骨 二重箱
全体サイズ:縦1840*横480 画サイズ:縦1010*横360
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片山楊谷は虎の絵で著名で、虎の毛を細い線で丹念に表し、「楊谷の毛描き」と呼ばれている。ただ歴史上の人物を題材にした作品も数多く描いています。
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落款には「瓊浦楊谷道監敬寫(けいほようこくどうかんけいしゃ) 押印」とあります。
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比較的に若い頃の作品には長崎を表わす「瓊浦」の名が入ることから、1780年~90年頃の作か? いずれにしろこの頃の作品は20作品ほどしか存在していないらしいので、判断が難しいところです。
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長崎派の画家として評価されていますが、因幡派にも属するようにも記録されています。若桜藩主・池田定常に絵を気に入られ、貞経は楊谷を引き止めるため、1792年(寛政4年)鳥取藩士で茶道役の片山家に夫婦とも養子とし、翌年家督を継ぎ、亡くなるまで9年間務めているからでしょう。
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1795年(寛政7年)湯治のため藩の許しを得て京都に行き、画名を得たと言われています。
円山応挙に弟子入りを請うと、応挙はその画才を見て驚嘆し、弟子ではなく友人として迎えたそうです。また、学芸を好んだ妙法院門主真仁法親王の前で席画を披露し、更にその兄・光格天皇は楊谷を宮中に招き、従五位下の位階を与え楊谷に数十幅の画作を依頼しています。楊谷が画を完成させ披露すると、天皇はその出来に満足し褒美として名硯・石王寺硯を与えたとされます。楊谷はこれを愛用し一生肌身離さなかった伝えられています。
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1800年(寛政12年)但馬の山路寺で数多くの障壁画を手掛け、現在兵庫県指定文化財になっていますが、但馬の湯村温泉で入浴中、突然発病してにて死亡しました。享年42という若さでした。
18世紀後半から19世紀前半にかけて実力のある画家たちが続々と登場している「因幡画壇」(鳥取派)は江戸時代における特異な存在であり、片山楊谷と同時期には土方稲嶺(1741-1807)は江戸や京で南蘋派の画風を学んできて、鳥取の藩絵師に登用され、黒田稲皐(1787-1846)や小畑稲升(1812-86)らがさらに輩出されています。これらの画家は本ブログにて「鯉」を題材にした作品をいくつか紹介してます。