当方の展示室の執務テーブルに置かれている藤田喬平作のガラスボールにはめ込まれている時計。なにかの記念品として作られてたのであろうから、数多くあるのだろうが、蒐集初期に集めた作品なのでそれなりに大切にしていました。しかしはめ込まれている時計が安物?で壊れやすいので、何度か修理していました。今回も故障したので、新たに見つけた新橋の修理店に持ち込んでみたら、今回はさすがにこの時計は修理不能ということで、嵌め込まれていた時計を交換してくれました。
ビルの一室にある小さな時計修理店ですが、かなりマニアックな感じ・・。いろんな部品を揃えてありようで、いろんなものを修理できそうです。なにかしら頼れるマニアックな修理してくれる人物がいるのは蒐集に対して大いなる手助けとなってくれますね。
*下記の写真のようにサイズの合う時計に入れ替えて立派な?作品となりました。下の時計はもともと嵌め込まれていた時計です。
このように修理に熱意を燃やす小生もかなりマニアック・・・・。
本日紹介する作品は「舞妓と裸婦を題材に豊穣な女性像を描き続けた、京都出身の日本画家」として著名な女流画家、広田多津の作品です。
扇面 舞妓 広田多津筆
金彩下地着色扇面額装 誂:黄袋+タトウ
全体サイズ:縦440*横690 画サイズ:縦875*横537
広田多津の画歴は本ブログにて幾度か紹介していますが、下記のとおりです。
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広田多津:(ひろた たづ) 1904年(明治37年)5月10日~1990年(平成2年)11月23日)。京都で活躍した日本画家。裸婦や舞妓を題材に、おおらかで豊饒な女性像を多く描いた。夫は同じ日本画家の向井久万。
*向井久万の作品は本ブログにても紹介されています。
京都市中京区の麻織物商を営む家に生まれる。
小学校卒業後は病弱のため進学せず、家事を手伝いながら独学で絵を始める。
竹内栖鳳の門下生で美人画を得意とする三木翠山を紹介され、1年ほど住み込みで絵の手ほどきを受ける。次いで「国画創作協会」の影響を受けていた甲斐庄楠音のもとで学んだ後、旧師・翠山から紹介を受けて栖鳳の竹杖会に、同会の解散後は西山翠嶂の青甲社に入塾した。
1936年(昭和11年)文展鑑査展に初入選。
1939年(昭和14年)第3回新文展で、初めての裸婦《モデル》が特選を受賞。
戦後1948年(昭和23年)山本丘人・上村松篁・福田豊四郎・吉岡堅二ら、京都・東京両系の画家による「創造美術」の結成に参加。官展を離れたということであり、ある意味、異端となった。
同人の秋野不矩と共に、当時の女性画家では珍しく裸体デッサンや裸婦作品を試みた。初期のデッサンには、陰影によって裸体の立体感を出そうと試みた様子も見られるが、その結果、余分なものを削ぎ、簡潔で美しい線による表現技法に到達する。ペン書体のような肥痩のない細い輪郭線は、多津の特色のひとつとなる。
*本ブログで紹介している画家「向井久万 竹内栖鳳 三木翠山 上村松園 土田麦僊 山本丘人 西山翠嶂 秋野不矩 上村松篁 福田豊四郎 吉岡堅二」らと多いの関りのあった画家です。
*画歴に登場する画家はいずれも本ブログにて馴染みのある画家ばかりです。
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「麻織物商の次女として生まれましたが、小さなころから絵を描くことが好きだった広田は小学校を卒業すると日本画家の三木翠山のもとに書生として住み込みますが、やがて翠山の美人画にあきたらなくなると、今度は甲斐庄楠音のもとで美術全般を学びます。「翠山の美人画にあきたらなくなる」ということのようです。
20歳で竹内栖鳳門下に入り、上村松園や土田麦僊らをメンバーとする竹杖会でもまれたのち、同会の解散にともなって西山翠嶂の塾に入り、32歳のときに文展で初入選を果たします。36歳で日本画家の向井久万と結婚、戦前から戦後にかけて新文展、日展で活躍したが、44歳のときに上村松篁、秋野不矩らと創造美術協会結成に参加、官展から離れ、裸婦を積極的に描くようになります。
下記の作品は当方にて参考作品として所蔵している作品です。
参考作品(模写) 鏡 伝広田多津筆
紙本着色軸装→額装に改装
2022年5月に額装→折れ補修のため同年7月に裏打ち直し
全体サイズ:縦1890*横647 画サイズ:縦875*横537
裸婦を日本画に取り入れたのは、やはり終戦直後という時代背景があったのだろうということのようです。
それは、日本画という枠のなかで、いかにボリュームというものを表現すればよいかという試みであり、洋画と肩を並べてゆくための挑戦でもあったとされています。
裸婦からその後の晩年からは「舞妓」を描き始めます。
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1951年(昭和26年)創造美術が新制作協会に合流し、後に創画会として独立するとともに多津も活動の場を移します。
1955年(昭和30年)《大原の女》で第5回上村松園賞を受賞。
この頃から一時期、テーマを舞妓に絞って制作を行っています。それまで多津にとっての舞妓とは「着飾った人形」にすぎなかったのですが、「都をどり」のポスター原画を以来されてスケッチをする中で、美しい舞妓が「水泳やスケートを自由に
楽しみ、現代に生きる女性」であることを知り強い興味を持ったとされています。
1968年(昭和43年)二人の舞妓を描いた《凉粧》が文化庁買上げとなる。
1977年(昭和52年)京都日本画専門学校校長就任。
1978年(昭和53年)京都府と京都市の文化功労賞を受賞。晩年は「想」(1988年)など、人体を極限まで無駄のない線でとらえた生命感のある
女性像を多く描いた。
1990年(平成2年)11月23日、心不全のため
京都市北区の自宅で死去。86歳没。
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広田多津が裸婦の制作を中断、舞妓を題材にし始めたのは56歳で向井と離婚してからです。このとき絵筆一筋に進む決意をしたのだというこのようです。しかし、どういうわけか、彼女はまなざしを読み取ることができない舞妓を描いています。舞妓は、うつむきがちで、どこか自己の内面を見つめているような哀しみの色がのぞいています。それは男の描く舞妓と女の描く舞妓の違いといってもいいのでしょうか? 職業としての舞妓を広田によって人間としての舞妓に置き換えられているように思えます。
古希を前にして、広田多津の描く舞妓も変わります。1970年代半ばから、広田の舞妓にははっきりと黒い瞳が描かれ始め、それと同時に、舞妓たちからは恥じらいや媚びが消え去り、かわって健康ではつらつとした、たくましい舞妓像となります。それは華岳や麦僊が描いた少女っぽい舞妓とは異なる、広田が独自に生み出した、現代に生きる生身の娘たちの舞妓の姿といってもいいのでしょう。この広田多津の描いた舞妓は後世の画家に大きな影響を与えることになります。
本作品は晩年の作ではないかと推察しています。
少しツンと上を向いた鼻、肉感的な唇。退廃的な雰囲気などみじんもまとうことなく、健康的で少々いけずそうな若い女たち…。離婚後、制作活動一筋に取り組んだ広田は、その作品が64歳のときに文化庁買い上げとなり、その後も73歳で京都日本画専門学校の校長に就任、さらにその翌年には京都府・市の文化功労賞を受賞するなど、着実に画家としてキャリアを積み上げています。
うつむいていた舞妓が、その顔をあげ、そしてつぶったような目に黒い瞳が描かれるようになってゆく過程は、まさに日本画家、広田多津が自信を積み上げながら成長してゆく道のりを表現しているのでしょう。広田の描いた舞妓の作品を見ていると少し元気が出てくるように思います。
実は本作品は、作者名も明らかでないままのインターネットオークションへの出品であったため当方のみの入札で廉価で落札した作品です。なお本作品は古い当時のままの額に納まっておりますが、扇面の作品を額装にするには意外に手間がかかるもののようです。