夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

壺 杉本健吉画

2022-03-02 00:01:00 | 洋画
売約契約で手放す予定の畑にある梅の木から家内が枝を切ってきて活けていました。壺は伊万里です。床の板は木場で見つけたもので、船底に使用したもののようです。



外は雪が降ったりとまだ寒い時期が続いていますが、家の中での梅は蕾の状態から花が咲き始めました。梅と言えば天神様にも・・。

小さい頃から天神様こと菅原道真公は梅の花を好んでいたようで、道真公が住んでいた天神御所は別名「白梅御殿」、別邸は「紅梅御殿」と呼ばれていたことから、邸内には多くの梅が植えられていたようです。道真公の詠まれた和歌の中で最も有名な和歌は、九州の大宰府へ左遷が決定し、「紅梅御殿」から出発しようとした時に、庭の白梅を見て詠まれたものです。「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春をわするな」。

伝説によれば、この梅の木は、道真公を追って九州の大宰府まで飛んでいったとされ、飛梅と呼ばれています(飛梅伝説)。
 
天神様の紋は梅であり、天神様を奉る神社の境内にはたいてい梅林があります。また、ご祈祷を受けると、お下がりとして梅干が下賜されることも多いようです。ちなみに、九州大宰府天満宮は、お神酒が梅酒だそうです。

骨董蒐集は知識の取得には事欠きませんね。。「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春をわするな」と「飛梅伝説」くらいは常識として覚えておきましょう。



さて本日紹介する作品は杉本健吉の壺の絵の作品です。

1949年(昭和25年)杉本健吉が45歳の時に、東大寺観音院住職上司海雲師の知遇を受け、観音院の古土蔵をアトリエにしてもらい、そこを拠点として奈良の風物を描いています。東大寺の管長を務められた上司海雲師は會津八一や志賀直哉、入江泰吉ら、多くの文人と交流されたことでも有名であり、師を通して杉本健吉も彼らと交流しています。この作品はその当時に奈良で描いた作品と思われます。



下記の写真はその当時に撮影されたもののようです。

中央:會津八一 左:杉本健吉 右:上司海雲師    
観音院の庭にて入江泰吉氏撮影



この作品が描かれたと思われる1950年(昭和25年)に、平家物語を題材にした吉川英治作(週刊新潮連載)新・平家物語の挿絵を担当することとなります。

壺 杉本健吉画
油彩額装 左下サイン 裏面「杉本健吉 昭和25年(1950年)」 誂タトウ+黄袋 
F12号 全体サイズ:縦690*横700 画サイズ:縦498*横606



杉本健吉の油絵は売りに出されることはなく、記念や依頼によって寄贈する作品以外は自分で所蔵し、その所蔵作品は杉本健吉の美術館にすべて寄贈されているので、市場では滅多に見かけないものです。


杉本健吉は絵の具を布団に入れて寝るほど、小さい頃から絵が大好きであったそうです。当然、絵描きになりたかった杉本健吉ですが、とある洋画家に「絵は趣味でやり、生活を支える職業は図案家(今で言うグラフィックデザイナー)として勉強しなさい」と言われ、工業学校の図案科に進学したそうです。



18歳で卒業後は企業に就職し、図案などの仕事に従事し、そのかたわら、20歳で岸田劉生に弟子入り、本格的に絵画の道も歩み始めます。22歳になると図案家として独立、名古屋鉄道(名鉄)の観光ポスターなどを多数手がけるようになり、24歳で結婚しました。その後、昭和天皇・皇后両陛下の伊勢神宮参拝の際に、案内図を担当するほど、名古屋のグラフィックデザイン界の第一人者となりますが、好きな絵を描くこともやめませんでした。岸田劉生亡き後は、30歳で梅原龍三郎に師事。杉本は、「絵の骨格を岸田劉生から、華やかさを梅原龍三郎から学んだ」と言っています。



35歳頃からは大和の風物に魅せられ、奈良へ頻繁に通って作家や写真家などさまざまな一流の人たちと親交。戦争中も、博物館や埴輪、仏像、風景などを多数描いています。この延長線上に本日のこの作品があります。

前述のように45歳で、「週刊朝日」の連載小説、吉川英治の「新・平家物語」の挿絵に抜擢され、最終回まで7年間担当しています。その後は、1962(昭和37年)年57歳での沖縄(当時はアメリカ占領下)旅行を皮切りに、96歳の中国まで、たびたび海外へスケッチ旅行にも出かけました。2004(平成16)年2月10日、肺炎のため満98歳でこの世を去りましたが、その直前まで絵筆を放さなかったといいます。

「絵は子どもと同じ」と言って、ほとんど自分の絵を手放さなかった杉本健吉。当時すでに4,000点以上あった作品を収蔵・展示する場所として1987(昭和62)年にオープンしたのが、知多半島の杉本美術館で当時の作品がすべて寄贈されています(現在は9,700点あまりを収蔵)。モダンで瀟洒な館内と庭は、設計段階から杉本自身も関わり、ロゴマークも本人のデザイン。地下のアトリエで、たくさんの作品も生み出しました。

「まず驚きだ、感激だね。感激すれば受胎して、その子どもが絵なの」
「感激というのは出逢わなければわからない。対面しないとわからないから、対面するために自分がいろんなことをやったり、出かけていく。それが外国でなくてもかまわないし、身近なことでもかまわない。いつも見ているものでも感激したら、それに夢中になる」(『杉本健吉画文集 余生らくがき』より)
これらは杉本が96歳の時、自身の絵の原点について語った言葉です。オープン当初から杉本美術館の学芸員を務める鈴木威さんは、「このアトリエに通って来る時も、道中、一心不乱にじーっと外を見つめて、常に新しい発見や感動を探していました」と語っています。

杉本の人となりについては、「とにかく動物と子どもが大好き。ご自分にも7人のお子さんがいて、家族を大切にする家庭人でした」だそうです。来館の際、連れてきた赤ちゃんが泣いて恐縮しているお母さんに、「赤ちゃんは泣くのが仕事」と笑いながら話しかけたこともあるとか。



歴代の愛犬をはじめ、動物を作品にもたくさん描きました。また、ダジャレも大好きだったそうで、右手を骨折して使えなくなった時(当時84歳)は左手で絵や文字を書き、「左手誕生」という作品を残したり、絵の中に自分の姿を描き入れたり、92歳の時、名古屋能楽堂の鏡板に「若松」を描いたりと、自由さもお茶目っぷりも持っていたようです。

「杉本作品の魅力は、どんな人が見ても楽しめる絵画」であり、作品への愛と感激にあふれた、楽しくてすてきな作品ですが、その作品からは「人は年を取っても、好奇心や感激がある限り、老いることはないんだよ」、「人生をおもしろくするもつまらなくするも自分次第」などと、杉本健吉に語りかけられているように感じらます。 



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