初期色絵の作品は初期伊万里の染付の延長線上の色絵の作品で、稚拙な感じがする作品であり、以前は古九谷だの初期柿右衛門手などと混同され貴重品とされました。それゆえ高価な作品として扱われてきましたが、今では15センチ程度の皿なら数万円程度の手頃な?値段で取引されています。
古伊万里 山水文初期色絵
口径195*高台径*高さ33
合箱
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初期伊万里=染付伊万里の誕生
肥前磁器の焼造は17世紀初頭から始まりました。秀吉の朝鮮出兵の際、肥前国鍋島藩主の鍋島直茂が、連れ帰った李参平は、1616年に有田の泉山で白磁鉱を発見し、そこに天狗谷窯を開き日本初の白磁を焼いた有田焼の祖と言われていました。学術調査の進展によって、1610年代前半から、西部の天神森、小溝窯で磁器製造が始まっていたことが明かになっています。この頃の有田では当時日本に輸入されていた、中国・景徳鎮の磁器の作風に影響を受けた染付磁器を作っていました。17世紀の朝鮮では白磁しか製造されておらず色絵の技法がなかったため、絵具の知識は中国人に学んだと考えられています。この頃までの有田焼を初期伊万里と呼ばれています。
陶石を精製する技術が未発達だったことから、鉄分の粒子が表面に黒茶のシミ様となって現れていること、素焼きを行わないまま釉薬掛けをして焼成するため柔らかな釉調であること、形態的には6寸から7寸程度の大皿が多く三分の一高台が多いことが特徴です。
初期伊万里の考察は本ブログにて下記の作品を例に投稿してます。
「贋作考 初期伊万里花鳥図染付七寸丸皿」(2018年10月11日記事)
初期伊万里花鳥図染付七寸丸皿
高台内「太□明」銘 合箱
口径203*高さ20*高台径
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本日紹介している作品は初期伊万里の延長線上にて作られた色絵の作品と思われますが、一時期に古九谷や初期柿右衛門手と称されて評価が高かったので贋作も横行したと推定されますので、あくまでも「伝」としておきます。
初期色絵が始まったのは1640年代だそうです。現在では「初期色絵様式」と区分されているようです。
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初期色絵≒初期柿右衛門手の誕生
有田で色絵が始まったのは1640年代。中国人によって有田焼の技術革新が行われ、1次焼成の後に陶磁器用の絵の具で釉薬の上に彩色を施す技法にて上絵付けを行なう色絵磁器が生産されるようになりました。それまでの染付のみの単色の世界から、多彩色になり、当時は画期的なものでした。1640年代から1660年代ごろの初期の色絵は、「初期色絵様式」と称されています。赤・緑・黄・青・紫などを使う「五彩手」や緑・黄・紫・青などで器面を塗って埋める「青手(あおで)」などがあります。
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本作品にはまだ赤色が入っていませんね。
これからすぐに技術が発達して古九谷様式や初期柿右衛門様式が出来上がっていったと推察されます。
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古九谷様式と柿右衛門様式
さらにこの技法が発展した伝世品の「古九谷様式」と呼ばれる青・黄・緑などを基調とした作品は、この時期の有田で焼かれた初期色絵がほとんどを占める事が近年の調査でわかっています。ほぼ同時期には有田の技術を基に備後福山藩で姫谷焼の磁器が20年間ほど生産されていました。一方有田では17世紀後半に生産が始まった柿右衛門様式の磁器は、濁手と呼ばれる乳白色の生地に、赤を主調とし余白を生かした絵画的な文様を描いたものです。この磁器は初代酒井田柿右衛門が発明したものとされていますが、窯跡の発掘調査の結果によれば、柿右衛門窯だけでなく、有田のあちこちの窯で焼かれたことがわかっていて、様式の差は生産地の違いではなく、製造時期の違いであることがわかっています。
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初期伊万里の延長線上であるため。素焼きを行わないまま釉薬掛けをして焼成するため柔らかな釉調であること、形態的には6寸から7寸程度の大皿が多く三分の一高台が多いことが特徴であるという点は初期伊万里と共通しているかもしれません。
陶石を精製する技術が未発達だったことから、鉄分の粒子が表面に黒茶のシミ様となって現れていることは顕著ではありませんが、まだ白さに鮮やかさはありませんね。
裏側に手跡がつくという初期伊万里の原則(例外もある)もそのままのようです。
17世紀にはこの色絵が発達して大きめの色鮮やかな作品も生まれているようで、初期柿右衛門手と称されているようです。いずれにしても古伊万里関連は当方の得意とする分野ではありませんのであくまでも参考資料と願います。
遼三彩などの小皿、中皿らと並べて鑑賞しています。
古伊万里 山水文初期色絵
口径195*高台径*高さ33
合箱
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初期伊万里=染付伊万里の誕生
肥前磁器の焼造は17世紀初頭から始まりました。秀吉の朝鮮出兵の際、肥前国鍋島藩主の鍋島直茂が、連れ帰った李参平は、1616年に有田の泉山で白磁鉱を発見し、そこに天狗谷窯を開き日本初の白磁を焼いた有田焼の祖と言われていました。学術調査の進展によって、1610年代前半から、西部の天神森、小溝窯で磁器製造が始まっていたことが明かになっています。この頃の有田では当時日本に輸入されていた、中国・景徳鎮の磁器の作風に影響を受けた染付磁器を作っていました。17世紀の朝鮮では白磁しか製造されておらず色絵の技法がなかったため、絵具の知識は中国人に学んだと考えられています。この頃までの有田焼を初期伊万里と呼ばれています。
陶石を精製する技術が未発達だったことから、鉄分の粒子が表面に黒茶のシミ様となって現れていること、素焼きを行わないまま釉薬掛けをして焼成するため柔らかな釉調であること、形態的には6寸から7寸程度の大皿が多く三分の一高台が多いことが特徴です。
初期伊万里の考察は本ブログにて下記の作品を例に投稿してます。
「贋作考 初期伊万里花鳥図染付七寸丸皿」(2018年10月11日記事)
初期伊万里花鳥図染付七寸丸皿
高台内「太□明」銘 合箱
口径203*高さ20*高台径
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本日紹介している作品は初期伊万里の延長線上にて作られた色絵の作品と思われますが、一時期に古九谷や初期柿右衛門手と称されて評価が高かったので贋作も横行したと推定されますので、あくまでも「伝」としておきます。
初期色絵が始まったのは1640年代だそうです。現在では「初期色絵様式」と区分されているようです。
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初期色絵≒初期柿右衛門手の誕生
有田で色絵が始まったのは1640年代。中国人によって有田焼の技術革新が行われ、1次焼成の後に陶磁器用の絵の具で釉薬の上に彩色を施す技法にて上絵付けを行なう色絵磁器が生産されるようになりました。それまでの染付のみの単色の世界から、多彩色になり、当時は画期的なものでした。1640年代から1660年代ごろの初期の色絵は、「初期色絵様式」と称されています。赤・緑・黄・青・紫などを使う「五彩手」や緑・黄・紫・青などで器面を塗って埋める「青手(あおで)」などがあります。
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本作品にはまだ赤色が入っていませんね。
これからすぐに技術が発達して古九谷様式や初期柿右衛門様式が出来上がっていったと推察されます。
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古九谷様式と柿右衛門様式
さらにこの技法が発展した伝世品の「古九谷様式」と呼ばれる青・黄・緑などを基調とした作品は、この時期の有田で焼かれた初期色絵がほとんどを占める事が近年の調査でわかっています。ほぼ同時期には有田の技術を基に備後福山藩で姫谷焼の磁器が20年間ほど生産されていました。一方有田では17世紀後半に生産が始まった柿右衛門様式の磁器は、濁手と呼ばれる乳白色の生地に、赤を主調とし余白を生かした絵画的な文様を描いたものです。この磁器は初代酒井田柿右衛門が発明したものとされていますが、窯跡の発掘調査の結果によれば、柿右衛門窯だけでなく、有田のあちこちの窯で焼かれたことがわかっていて、様式の差は生産地の違いではなく、製造時期の違いであることがわかっています。
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初期伊万里の延長線上であるため。素焼きを行わないまま釉薬掛けをして焼成するため柔らかな釉調であること、形態的には6寸から7寸程度の大皿が多く三分の一高台が多いことが特徴であるという点は初期伊万里と共通しているかもしれません。
陶石を精製する技術が未発達だったことから、鉄分の粒子が表面に黒茶のシミ様となって現れていることは顕著ではありませんが、まだ白さに鮮やかさはありませんね。
裏側に手跡がつくという初期伊万里の原則(例外もある)もそのままのようです。
17世紀にはこの色絵が発達して大きめの色鮮やかな作品も生まれているようで、初期柿右衛門手と称されているようです。いずれにしても古伊万里関連は当方の得意とする分野ではありませんのであくまでも参考資料と願います。
遼三彩などの小皿、中皿らと並べて鑑賞しています。