© 毎日新聞 提供 摩文仁にある「平和の礎」を早朝から訪れ、沖縄戦で犠牲になった親族らを悼む人たち=沖縄県糸満市で2022年6月23日午前5時57分、喜屋武真之介撮影
沖縄戦から77年 なぜ6月23日が「慰霊の日」になったのか
(毎日新聞 2022/06/23 06:00)
6月23日は、太平洋戦争末期に沖縄であった地上戦で犠牲になった人々らを悼む「沖縄慰霊の日」です。なぜ、この日が「慰霊の日」になったのでしょう。沖縄の人たちはどんなふうにこの日を過ごすのでしょう。
Q:なぜ6月23日を「慰霊の日」としているの?
A:1945年6月23日で、沖縄戦での日本軍の組織的な戦闘が終わったとされるためです。この日に、当時、沖縄の防衛に当たっていた日本軍司令官の牛島満中将や、その部下が自決(自殺)しました。ただ、自決については6月22日という説もあります。戦後、米国統治下にあった61年に琉球政府が法で「慰霊の日」を休日と定めました。当初は6月22日で、65年から6月23日に改められました。実際は牛島中将の自決後も戦闘は続き、米軍が沖縄作戦の終了を宣言したのは45年7月2日。米軍と現地の日本軍の間で降伏調印式があったのは45年9月7日でした。
Q:そもそも沖縄戦はなぜ起こったの?
A:米軍が沖縄を日本本土侵攻の足がかりにしようとしたからです。41年12月に始まった太平洋戦争は、42年6月のミッドウェー海戦で日本軍が大敗したのを機に米軍が攻勢に転じました。44年夏には米軍がサイパンやテニアンといった日本列島の南にある島々を攻略。そして、日本を降伏させるため、米軍は44年10月、本土侵攻への補給拠点として適した位置にある沖縄への上陸作戦を決定しました。45年3月26日、米軍は沖縄本島西側にある慶良間(けらま)諸島に上陸。4月1日には沖縄本島に上陸し、地下陣地で待ち構えていた日本軍との激しい戦いになりました。
Q:たくさんの人が犠牲になったと聞くよ。
A:日米合わせて20万人以上が亡くなりました。このうち約19万人が日本側の犠牲者です。沖縄県民は一般住民約9万4000人(推計)、軍人・軍属2万8228人の計約12万2000人が亡くなり、県民の4人に1人が犠牲になったと言われています。
Q:なぜそんなに犠牲者が出たの?
A:沖縄戦で米軍は支援部隊を含め約55万人もの兵力を投入しましたが、日本側の兵力は約10万人。中には、訓練が不十分な地元住民や少年たちも多く、圧倒的な兵力差がありました。「鉄の暴風」とも呼ばれた米軍の激しい砲爆撃を受け、45年5月下旬に日本軍は首里城地下に置いていた司令部を捨てて南下。沖縄本島南部は兵士と避難民が入り交じる戦場となり、米軍の無差別な攻撃で犠牲が膨らみました。
Q:沖縄の人たちは、「慰霊の日」をどんなふうに過ごすの?
A:沖縄では6月23日は休日で、朝から遺族らが犠牲者の冥福を祈るために、各地の慰霊塔や慰霊碑に集まります。遺骨が見つかっていない犠牲者が多く、戦後野ざらしになっていた遺骨を沖縄の人たちが集めて建立した糸満市米須の「魂魄(こんぱく)の塔」を訪れる人もいます。この塔は46年2月に建立され、戦後、最初に造られた慰霊塔とされます。
沖縄ではちょうどこの頃に梅雨が明けることが多く、亡くなった人が家族との食事を楽しめるようにと、慰霊塔の前で重箱に入った料理を広げる姿も見られます。糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園には95年、犠牲者の名前を刻んだ石碑「平和の礎(いしじ)」が造られました。慰霊の日にはこの場所を訪れ、命を落とした家族や親族の名前を指でなぞったり、花を手向けたりする人も多くいます。
Q:平和祈念公園である追悼式の様子はテレビ中継もしているよね。
A:正午に合わせ参列者が黙とうをささげ、知事が「平和宣言」で戦争の悲劇を二度と起こさない決意を示します。今年は3年ぶりに首相を招待しています。地元の子供たちが寄せた詩から選ばれた作品が「平和の詩」として朗読されます。今年は小学2年の女子児童が「こわいをしって、へいわがわかった」という作品を朗読します。
Q:5月は「沖縄が日本本土に復帰して50年」というニュースをよく見かけたけど、慰霊の日も特別なんだね。
A:そもそも沖縄が27年もの長い間、米軍統治下に置かれたのは沖縄戦がきっかけです。米軍は上陸後、占領した住民の土地に次々と基地を造りました。宜野湾市の普天間飛行場など、その多くが今も使われています。また、地中に埋まったままの沖縄戦当時の不発弾も沖縄の人々の生活を脅かしています。77年前の戦争は今につながっているのです。
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