(承前)ばらの騎士の後半である。先ずはオックス男爵の登場となるのだが、そこを説明する当代きってのオックス歌いのグロイボェックの話しが面白い。オックスのようには普段はやらないのは当然としても、直ぐにここがパブロフの犬の様に頭に浮かんでしまうというのだ。大分危ない。
そしてエーリッヒ・クンツの父親の歌になると、指揮者のメストが指摘する。当時の歌手はシュトラウスをこのように明るい声で歌っていたと、そして今は皆声が暗くなっていると指摘。シュヴァルコップやルートヴィッヒも含めてシュトラウスの共通の歌い方があったとする。そこから想像するとファスベンダ―やポップでさえ違う、勿論ギネス・ジョーンズは大分異なる。同じ場面をこの制作の練習を観ていて刺激されたカルロス・クライバーの指揮の制作と比較してみると一目瞭然だ。
再びメストの感想は、当時の歌手が今より「上手に歌った」訳では無くてただ準備が充分に出来ただけで、カラヤンもカペルマイスターとしてとことん付き合っていたのだと、それが最も異なるとしている。
そして決して振り返らない男カラヤンが1980年代に成って初めて回顧して再びこの「ばらの騎士」をザルツブルクでリメークして取り上げた。その時にはメストが24歳で総稽古を観ていたようだ。既に数年前に出会いはあったようだが、その時には惜別の感情と同時に音響の魔術師として若い人にはない集中度があったとする。晩年にはその権威などよりもとても親しみやすい人になっていたと回顧するのはクラリネット奏者のシュタトルである。やらせたい儘に演奏させて、演奏会とは違うんだという事だった。
そこで再びシュヴァルツコップのマルシャリンに戻ると、「ストライキング」で、マレーネディトリッヒにも通じるようなその頬からの分断されたラインだというのだ。しかし現在の耳からするとその母音が色づいてeがiになったりeschになったりすると指摘。そしてとてもきっぱいとしたマルシャリンのドラマティックな決別の時となる。
そしてフィナーレへと向かうのだが、ここでのプロハスカのコメントが、歌手がここで注意しなければいけないのは自分自身が感情的に高まって泣いてしまう事で、そうなると文字通り喉に詰まってしまって声が出なくなるというのだ。
再びトリオのシュヴァルツコップの歌唱でタツェットとなって、カラヤンの芸術となる。そしてそれが難しいところで再びテムポを上げて、他の二人も何とかついて行けると。
この番組はザルツブルクの百周年記念のZDF制作だったが、なにか、シュヴァルツコップ批評やそしてカラヤンの芸術評なども含めて大きなけじめになった制作だと思う。ここ数年キリル・ペトレンコがカラヤンに言及するようになって、そしてここでもそのカペルマイスターとしての評価が定まるとともに、そしてまたその等身大の人物像が描かれた。その背景には、カラヤン未亡人やその財団がバーデンバーデンでの賞貸与から再び古巣のザルツブルクに還っても復活祭での影響を失うなどと明らかに政治、経済的な意味が無くなったことにも起因しているようだ。歴史化したとしても間違いない。
我々同時代も知っている人間からすると完璧でない実況録音などはとても耐えられないのも死後もそれなりの権威が支配していたことを示す。手元にある1983年7月26日の実況録音のカセットテープも当時既に完熟した様なその響きに若干胸やけのようなものと同時に刹那さを感じたのだが、今こうして音出しすると、そのゾフィーの歌の不味さやオクタヴィアンのバルツァの独特の歌声などを漸く冷静に聴けるようになる。(終わり)
参照:
楽では無く響のカラヤン 2020-07-18 | 音
注目する親子関係 2020-07-07 | 文化一般
そしてエーリッヒ・クンツの父親の歌になると、指揮者のメストが指摘する。当時の歌手はシュトラウスをこのように明るい声で歌っていたと、そして今は皆声が暗くなっていると指摘。シュヴァルコップやルートヴィッヒも含めてシュトラウスの共通の歌い方があったとする。そこから想像するとファスベンダ―やポップでさえ違う、勿論ギネス・ジョーンズは大分異なる。同じ場面をこの制作の練習を観ていて刺激されたカルロス・クライバーの指揮の制作と比較してみると一目瞭然だ。
再びメストの感想は、当時の歌手が今より「上手に歌った」訳では無くてただ準備が充分に出来ただけで、カラヤンもカペルマイスターとしてとことん付き合っていたのだと、それが最も異なるとしている。
そして決して振り返らない男カラヤンが1980年代に成って初めて回顧して再びこの「ばらの騎士」をザルツブルクでリメークして取り上げた。その時にはメストが24歳で総稽古を観ていたようだ。既に数年前に出会いはあったようだが、その時には惜別の感情と同時に音響の魔術師として若い人にはない集中度があったとする。晩年にはその権威などよりもとても親しみやすい人になっていたと回顧するのはクラリネット奏者のシュタトルである。やらせたい儘に演奏させて、演奏会とは違うんだという事だった。
そこで再びシュヴァルツコップのマルシャリンに戻ると、「ストライキング」で、マレーネディトリッヒにも通じるようなその頬からの分断されたラインだというのだ。しかし現在の耳からするとその母音が色づいてeがiになったりeschになったりすると指摘。そしてとてもきっぱいとしたマルシャリンのドラマティックな決別の時となる。
そしてフィナーレへと向かうのだが、ここでのプロハスカのコメントが、歌手がここで注意しなければいけないのは自分自身が感情的に高まって泣いてしまう事で、そうなると文字通り喉に詰まってしまって声が出なくなるというのだ。
再びトリオのシュヴァルツコップの歌唱でタツェットとなって、カラヤンの芸術となる。そしてそれが難しいところで再びテムポを上げて、他の二人も何とかついて行けると。
この番組はザルツブルクの百周年記念のZDF制作だったが、なにか、シュヴァルツコップ批評やそしてカラヤンの芸術評なども含めて大きなけじめになった制作だと思う。ここ数年キリル・ペトレンコがカラヤンに言及するようになって、そしてここでもそのカペルマイスターとしての評価が定まるとともに、そしてまたその等身大の人物像が描かれた。その背景には、カラヤン未亡人やその財団がバーデンバーデンでの賞貸与から再び古巣のザルツブルクに還っても復活祭での影響を失うなどと明らかに政治、経済的な意味が無くなったことにも起因しているようだ。歴史化したとしても間違いない。
我々同時代も知っている人間からすると完璧でない実況録音などはとても耐えられないのも死後もそれなりの権威が支配していたことを示す。手元にある1983年7月26日の実況録音のカセットテープも当時既に完熟した様なその響きに若干胸やけのようなものと同時に刹那さを感じたのだが、今こうして音出しすると、そのゾフィーの歌の不味さやオクタヴィアンのバルツァの独特の歌声などを漸く冷静に聴けるようになる。(終わり)
参照:
楽では無く響のカラヤン 2020-07-18 | 音
注目する親子関係 2020-07-07 | 文化一般