Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

夜明けとなる大飛躍

2021-03-09 | マスメディア批評
結構冷えた。スポーツ時計ははかったかのようにバッテーリーがダウンした様だ。予備のバッテリーをもう一つ中共から入手していたので取り換えればもう暫く使える。しかし半田付けもしなければいけないので時間がある時に、ゆっくりとメモリーの修理を掛けてとなる。だからどうせ新しいものを発注しなければいけなかった。

だからその時計で走ったのは土曜日が最後だった。仕方が無いので万歩計で走った。11分で走るところが14分掛かっていたので、やはり遅い。フリースは着ていたが、下はショーツで裸だった。陽射しは気持ちよかったが手袋が無いと寒くては走れなかっただろう。

承前)フランクフルターアルゲマイネ新聞の文化欄一面にぶち抜きの記事が出ている。音楽で少なくともコンサートでは見た記憶が無い。キリル・ペトレンコ就任演奏会の評よりも遥かに大きい。先日「都落ち」と言い放った評者であるから私ととても似た視点を持っている人であるが、私も大絶賛したが、こちらでも絶賛している。しかしその焦点が少し違っている。

私が第一部前半の新曲を酷評したのに対して、ここではしっかりとプログラムを読んで、下調べして、後半のメシアンは文化相アンドレ・マルローによる1964年の依頼で両大戦での死亡者追悼として書かれていて、そのヨハンの啓示の行進に、ラトルと楽員がゆっくりと進み、細かな相反する動きも大きな波となって一体化して、管のヘテロフォニカルな合奏が、大きな行進の流れになって行ったとしている。仔細に関しては一昨年ロンドン交響楽団の演奏で騙されたので詳しく自ら調べるまでは意見を保留したいが、大きな効果に関しては疑いようが無かった。

それをして評者は、ベルリンでの末期には、緊張と硬さがそのまま音になっていて、ミュンヘンでの芸術的に幸せに為せたものが聴き取れなかったとしていて、それにはもはや付け加えることが無い事実であろう。要するに演奏行為とはそうしたものであると語っている。

その意味からも第二部のパーセルとハースの曲に焦点を移すのだが、評者はその組み合わせをして「鋭い」としていて、ラトルと同時にムジカヴィーヴァの芸術監督ヴィンリッヒ・ホップのプログラミングを称賛している。それに対して第一部の組み合わせをポストモダーンの信仰告白のあり方としてその二曲の演奏行為を評している。奥さんのコジェーナが恥ずかしげもなくエクスタシーの雌叫びを出したとしているが、なるほどそれならばメシアンのエクスタシーは対応するものだ。

また前回ムジカヴィーヴァで取り上げたアダムスのハルモニーレーレを含めて、現代曲はシェフの仕事であることを告白したようなもので、前任者がそれは違うとは言わなかっただけで距離を置いていたことからすれば、ラトルのこうした仕事はミュンヘンの夜明けへの飛躍としている。平素の定期公演でも評者が語る様に「実験的」なプログラミングが可能となるならば、そして丁寧な仕事が出来るならば、ラトルにとっても本当の花が咲くことになる。



参照:
Der lange Marsch ins Licht, JAN BRACHMANN, FAZ vom 8.3.2021
先を見通す下調べ 2021-03-06 | 雑感
コロナ禍は夏までに終息 2021-03-07 | 料理
コメント
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