フランクフルターアルゲマイネ新聞には引き続き、週末のベルリンでのミュンヘンからの演奏会や中継の批評が載っている。後者はホームオフィースであり、前者はそこにいなければ分からない事が書いてある。ラフマニノフの交響曲が終ると音が消えないうちにスタンディングオヴェーションになったというのである。これは復活祭日曜日の映像を待つしかない。放送は聴いたのだが、やはり特別な雰囲気だったのは分かる、同時に一律20ユーロの券に普段はあまり来ない人も集ったのだと思う。大都市で観光客も多いので普段の底の聴衆の程度は決して高くないのは分かっているのだが、現在は在住者しかいない、しかしこういう実験演奏会となるとまた聴衆の層が違うのだろうと思う。
良かったのは、千人の中の五百人はフィルハーモニーの室内楽ホールで抗原検査を受けたが、その全員が陰性だったことだろうか。残りもというが離れた現場の事はよく分からない。現在の新陽性者指数からすれば500人でも一人二人は陽性者の出る感染状況なので、少し不思議に思う。
ベルリンがお手本にしたのはヴュルテムベルクのテュービンゲンのようだが、そこでは偽陽性が出て問題になっている。PCR検査すると陰性になるという例である。市では新陽性者指数も30に落として、劇場や商店などが開いているという。
ミュンヘンからの中継批評は、シュテファン・メッシュという知らない人が書いている。どこからでも観て書けるので範囲を広げているのかもしれない。そこに書いてあることでまず気が付いたのは例の半裸の爺さんはいつものスタティステンの爺さんでは無くてれっきとした演出家のイングマール・ティロと言う人らしい。それならば余計に手先の危なさを感じた。なによりもその身体がここに書かれる様にメメントモリで大丈夫かと思う。パパゲーノの笛を吹いた「時の喪失」として言及される。所謂ホフマンスタールの言う「時は特別なものである」。気の利いた皮肉としてフランク・カストルフを想起している。
三幕の劇場中の劇が計画通り上手に運んでいなかったのは練習不足か、ストレスかと疑問を呈しているが、これも重ねるうちに良くなる面だろう。興味深いことに筆者はクライバーの時のそれを知っているのだろう、ユロウスキーの指揮でクライバーが手をひらひらさせる面に欠けると、よく準備していてテムピを定めていたが、多くの場面で重くなったと批評する。これを読んで指揮者は何を感じるか?クライバーをまたここで書くように、小編成版を使ったことで偉大な前任者達との比較を避けたとしている。
さてマルリス・ペーターセンのマルシャリンデビューに関して興味深い言及がある。その歌は言葉よりもフレージングだとして、器楽的に正確な線と声の遊びだとしている。ご本人が読んでもあまり理解できないかもしれない。しかし初演の時のマルガレーテ・ジムスの古い「ウインザーの女房たち」の録音を挙げて、その歌唱のトリルと装飾の歌を得意とするような歌声でとまさしくペーターセンのその声に近いことを暗示している。それに比較して、その後のロッテ・レーマンやウルスレクの母親的で権勢のある声になり、その後にそれらを習うようなシュヴァルツコップになって仕舞ったが、ペーターセンは時計の針を戻して、肉体的にも精神的にも現代の歌手の活き活き感を現実化しているとしている。
Strauss "Rosenkavalier" mit Uraufführungssängern 1911 (Siems: Monolog Marschallin) Clip1·4
LOTTE LEHMANN - Der Rosenkavalier - MONOLOG DER MARSCHALLIN 1925
Der Rosenkavalier, Komödie für Musik, Op. 59, Act 1: X. Da Geht er hin
Classic Archive™ - Elisabeth Schwarzkopf
この事は、そのシュヴァルツコップ時代の鼻先へと抜ける発声に関してのヴェルサ―メストの話しへと繋がるのだろうが、とても興味深いリヒャルト・シュトラウスの声を考える重要な要素となるだろう。
乾電池にクレームをつけて、勝ち得た金券を7ユーロ分を使用した。電球が切れたので今迄購入したことが無かったフィルップスの5ユーロの電球と問題の乾電池を購入した。電球はもう一つ余分に欲しかったが割高だったので一つだけ購入した。乾電池は同じ自社ブランドの八本で2ユーロの安物を購入した。クレームを付けた不良品とは装丁が変わっていた。品質改良されていることを望む。もう一度クレームをつけるのはクレーマーのように思われるので嫌である。
参照:
Wenn man wieder reindarf, will man gar nicht mehr raus, Clemens Hausten, FAZ von 22.3.2021
Ein sonderbar Ding, Stephan Mösch, FAZ vom 23.3.2021
二カ月で潮を吹く 2021-01-19 | 雑感
夢のような倒錯した舞台 2021-03-22 | 音
良かったのは、千人の中の五百人はフィルハーモニーの室内楽ホールで抗原検査を受けたが、その全員が陰性だったことだろうか。残りもというが離れた現場の事はよく分からない。現在の新陽性者指数からすれば500人でも一人二人は陽性者の出る感染状況なので、少し不思議に思う。
ベルリンがお手本にしたのはヴュルテムベルクのテュービンゲンのようだが、そこでは偽陽性が出て問題になっている。PCR検査すると陰性になるという例である。市では新陽性者指数も30に落として、劇場や商店などが開いているという。
ミュンヘンからの中継批評は、シュテファン・メッシュという知らない人が書いている。どこからでも観て書けるので範囲を広げているのかもしれない。そこに書いてあることでまず気が付いたのは例の半裸の爺さんはいつものスタティステンの爺さんでは無くてれっきとした演出家のイングマール・ティロと言う人らしい。それならば余計に手先の危なさを感じた。なによりもその身体がここに書かれる様にメメントモリで大丈夫かと思う。パパゲーノの笛を吹いた「時の喪失」として言及される。所謂ホフマンスタールの言う「時は特別なものである」。気の利いた皮肉としてフランク・カストルフを想起している。
三幕の劇場中の劇が計画通り上手に運んでいなかったのは練習不足か、ストレスかと疑問を呈しているが、これも重ねるうちに良くなる面だろう。興味深いことに筆者はクライバーの時のそれを知っているのだろう、ユロウスキーの指揮でクライバーが手をひらひらさせる面に欠けると、よく準備していてテムピを定めていたが、多くの場面で重くなったと批評する。これを読んで指揮者は何を感じるか?クライバーをまたここで書くように、小編成版を使ったことで偉大な前任者達との比較を避けたとしている。
さてマルリス・ペーターセンのマルシャリンデビューに関して興味深い言及がある。その歌は言葉よりもフレージングだとして、器楽的に正確な線と声の遊びだとしている。ご本人が読んでもあまり理解できないかもしれない。しかし初演の時のマルガレーテ・ジムスの古い「ウインザーの女房たち」の録音を挙げて、その歌唱のトリルと装飾の歌を得意とするような歌声でとまさしくペーターセンのその声に近いことを暗示している。それに比較して、その後のロッテ・レーマンやウルスレクの母親的で権勢のある声になり、その後にそれらを習うようなシュヴァルツコップになって仕舞ったが、ペーターセンは時計の針を戻して、肉体的にも精神的にも現代の歌手の活き活き感を現実化しているとしている。
Strauss "Rosenkavalier" mit Uraufführungssängern 1911 (Siems: Monolog Marschallin) Clip1·4
LOTTE LEHMANN - Der Rosenkavalier - MONOLOG DER MARSCHALLIN 1925
Der Rosenkavalier, Komödie für Musik, Op. 59, Act 1: X. Da Geht er hin
Classic Archive™ - Elisabeth Schwarzkopf
この事は、そのシュヴァルツコップ時代の鼻先へと抜ける発声に関してのヴェルサ―メストの話しへと繋がるのだろうが、とても興味深いリヒャルト・シュトラウスの声を考える重要な要素となるだろう。
乾電池にクレームをつけて、勝ち得た金券を7ユーロ分を使用した。電球が切れたので今迄購入したことが無かったフィルップスの5ユーロの電球と問題の乾電池を購入した。電球はもう一つ余分に欲しかったが割高だったので一つだけ購入した。乾電池は同じ自社ブランドの八本で2ユーロの安物を購入した。クレームを付けた不良品とは装丁が変わっていた。品質改良されていることを望む。もう一度クレームをつけるのはクレーマーのように思われるので嫌である。
参照:
Wenn man wieder reindarf, will man gar nicht mehr raus, Clemens Hausten, FAZ von 22.3.2021
Ein sonderbar Ding, Stephan Mösch, FAZ vom 23.3.2021
二カ月で潮を吹く 2021-01-19 | 雑感
夢のような倒錯した舞台 2021-03-22 | 音