日曜日午前中の新制作紹介マティネーのヴィデオが流された。来る日曜日に新制作初日を迎える「ばらの騎士」について、演出家のバリコスキー、指揮者ユロウスキー、マルシェリン役ペータセンらが支配人バッハラーを囲んでの座談である。
Online-Matinee: DER ROSENKAVALIER
内容は重要なところを網羅していて、一寸したガイダンスにもなっていた。音楽面では今回のコロナ禍のコンディションで中編成しか入らない拡張した奈落でも演奏可能なクローケ版についての説明もあった。各楽器1911年の初演に対して、1916年の編曲で「ナクソス島のアリアドネ」が基礎になっている。ユロスキーが語るには、この編曲によって、「ばらの騎士」が「アリアドネ」を内包していたとなる。
時制軸が後先になるのだが、「ばらの騎士」の神髄自体がそこにあって、ユロスキーをしてポストモダーン芸術の先駆けとしている。パロディー自体に時制が生じているので当然のことながらその不明確さが前後してデジャブ効果を生むことにもなる。
更に劇場にもある楽譜からオックスのバイエルン風ヴァルツァーが楽譜通りに歌われたことが無くて、今演奏するとすればそこで削られたものを全て復活されないことには意味が無いとしている。そのようにすることでパルランドも今回初めてテロップも何もなしに言葉が聴き取れる筈だとしている。カルロス・クライバー時代に演奏していた楽員もそれに関しては知らなかったと言う。
同時に当然のことながらミュンヘンのオットー・シェンクの全盛期の演出が今迄其の侭の衣裳などで引き継がれてきたことと、それに対する演出家の態度が質されて、ベルリンではフェルゼンシュタインからクッパーの流れがあるのでそれはそれで重いとした。丁度70年代の人々の感覚やその演出に関しては尊重するが、全く今日的ではないことを断っている。
ペーターセンが言う様に、マルシャリンはまだまだこれからであって、いわばゾフィー的なものとの別離でとなる。それは有名な三幕のヤーヤの肯きが従来の演出では疲れたような即ち寛容 ― 恐らくフィガロの伯爵夫人 ― の表現となるところが、コスキーはそれをしてそれはユダヤのそれで、プロテスタントのそれではないとした。
まさしく、ユロスキーの言う様にこの作品に価値を見るのは、一幕のヴァークナー風交響詩的な作風から二幕のモーツァルトのレティターヴに迫り、三幕へともはや次には「ウエストサイドストーリー」にしか繋がらないオペレッタに迫る新たなジャンルにしたことであり、そこで初めてプッチーニの現代性を持ち得たということになる。
ホフマンスタールがパリでのオペレッタを巡ってケスラーと激論となったのもそこであり、この作品が所謂音楽劇場の端緒にあったというのも肯ける。それは同時に間接的で婉曲的乍シェンクのロマンティックなそれへの強烈な批判ともなっているだろう。大まかな舞台構成などもある程度話しから想定できたが、それは観てのお楽しみということになろう。
こうして知るとやはりペトレンコが指揮を断ってクライバーのシェンク演出に拘って指揮したことなどを改めて考える。ユロスキーがパセイズムとする言葉で「スペードの女王」を並べたが、2023年復活祭の「影の無い女」に続いて2024年は「ばらの騎士」しかない筈で、そこで回答を出してくれるのか。
しかし公的音楽劇場の面白さとしてはペトレンコ時代にはなかったもので、ユロスキー音楽監督の秋の就任、更に新支配人ドルニー新体制の素晴らしさを期待させる上演になるだろうか。
気が付いたのはこうした言葉による紹介は矢張り、ロシア人とフランス人では無理で誰かが今後は司会やインターメディエートな重要な任務を担うようになるのだろう。
参照:
欧州のユダヤ人感への評価 2019-07-08 | 歴史・時事
コッホ研究所会見に注目 2021-02-18 | 文化一般
Online-Matinee: DER ROSENKAVALIER
内容は重要なところを網羅していて、一寸したガイダンスにもなっていた。音楽面では今回のコロナ禍のコンディションで中編成しか入らない拡張した奈落でも演奏可能なクローケ版についての説明もあった。各楽器1911年の初演に対して、1916年の編曲で「ナクソス島のアリアドネ」が基礎になっている。ユロスキーが語るには、この編曲によって、「ばらの騎士」が「アリアドネ」を内包していたとなる。
時制軸が後先になるのだが、「ばらの騎士」の神髄自体がそこにあって、ユロスキーをしてポストモダーン芸術の先駆けとしている。パロディー自体に時制が生じているので当然のことながらその不明確さが前後してデジャブ効果を生むことにもなる。
更に劇場にもある楽譜からオックスのバイエルン風ヴァルツァーが楽譜通りに歌われたことが無くて、今演奏するとすればそこで削られたものを全て復活されないことには意味が無いとしている。そのようにすることでパルランドも今回初めてテロップも何もなしに言葉が聴き取れる筈だとしている。カルロス・クライバー時代に演奏していた楽員もそれに関しては知らなかったと言う。
同時に当然のことながらミュンヘンのオットー・シェンクの全盛期の演出が今迄其の侭の衣裳などで引き継がれてきたことと、それに対する演出家の態度が質されて、ベルリンではフェルゼンシュタインからクッパーの流れがあるのでそれはそれで重いとした。丁度70年代の人々の感覚やその演出に関しては尊重するが、全く今日的ではないことを断っている。
ペーターセンが言う様に、マルシャリンはまだまだこれからであって、いわばゾフィー的なものとの別離でとなる。それは有名な三幕のヤーヤの肯きが従来の演出では疲れたような即ち寛容 ― 恐らくフィガロの伯爵夫人 ― の表現となるところが、コスキーはそれをしてそれはユダヤのそれで、プロテスタントのそれではないとした。
まさしく、ユロスキーの言う様にこの作品に価値を見るのは、一幕のヴァークナー風交響詩的な作風から二幕のモーツァルトのレティターヴに迫り、三幕へともはや次には「ウエストサイドストーリー」にしか繋がらないオペレッタに迫る新たなジャンルにしたことであり、そこで初めてプッチーニの現代性を持ち得たということになる。
ホフマンスタールがパリでのオペレッタを巡ってケスラーと激論となったのもそこであり、この作品が所謂音楽劇場の端緒にあったというのも肯ける。それは同時に間接的で婉曲的乍シェンクのロマンティックなそれへの強烈な批判ともなっているだろう。大まかな舞台構成などもある程度話しから想定できたが、それは観てのお楽しみということになろう。
こうして知るとやはりペトレンコが指揮を断ってクライバーのシェンク演出に拘って指揮したことなどを改めて考える。ユロスキーがパセイズムとする言葉で「スペードの女王」を並べたが、2023年復活祭の「影の無い女」に続いて2024年は「ばらの騎士」しかない筈で、そこで回答を出してくれるのか。
しかし公的音楽劇場の面白さとしてはペトレンコ時代にはなかったもので、ユロスキー音楽監督の秋の就任、更に新支配人ドルニー新体制の素晴らしさを期待させる上演になるだろうか。
気が付いたのはこうした言葉による紹介は矢張り、ロシア人とフランス人では無理で誰かが今後は司会やインターメディエートな重要な任務を担うようになるのだろう。
参照:
欧州のユダヤ人感への評価 2019-07-08 | 歴史・時事
コッホ研究所会見に注目 2021-02-18 | 文化一般