下関港の唐戸は人が多くて今風な観光港町
家族連れや若いカップルばかり
男ひとり旅にはまぶしかった
バスで近くの長府武家屋敷に向かった
あてずっぽうの旅です
何がどうあるのかわからず
腹が減ってはとお好み焼屋さんに
「菊舎」変わった名前だ
菊舎はお好み焼と釜めしがうり
ごく一般的な豚たま
東京ではお好み焼は広島焼きになるけど
ここは大阪風のお好み焼
若旦那が奥の調理場で忙しく
爺さんが目の前の鉄板で焼いてくれた
広島焼きじゃないお好み焼は何十年ぶり、、、
ひっきりなしのお客さん
出たり入ったりするもんだから
私のお好み焼に手が回らない
レジでまとめて勘定してくれよー
個別で払うから時間がとられる
若旦那「焦げてるぞー」
爺さん「・・・・・」
女将さん「2階のお客さんが下りますよ」
爺さん「・・・・・」
私「これじゃ焦げちゃうよ、、、」
爺さん忙しそう
爺さん「平和ボケなんだよ」
(小さな声で独り言)
私「・・・・・」
私「そうだよな、平和ボケなんだよな」
爺さん「そうだろ、日本は平和ボケだ」
爺さん「ブラジルじゃ数年ごとにクーデター」
「政権がころころ変わてしまう」
爺さん「店にいるだろ」
「機関銃を持った兵士がどかどか入ってくるんだ」
私「もしかして、ブラジルに住んでた?」
爺さん「あーあの時はね」
「仲間はチリ、ペルー、エクアドルやウルグアイにいった」
私「南米はあちこち行ったことがある」
「でもブラジルだけいったことない」
爺さん「機関銃を持った兵士には、何やっても無駄」
「だから、ちーんとしていた」
私「すごい所にいたんだね」
ブラジル移民だったそうだ
1960年代の日本は貧しくて
戦後間もないので国民は食うに困っていた
日本の政府は国民を世界に移民させていた
ハワイ移民などは最高待遇だった
南米移民は移民というより
棄民そのものだった
日本から移民してきた者は
ジャングルでも誰も住みたがらないような
危険なところに放り出された
その地について
半年で半数が亡くなった
結局ほとんどの人が亡くなった
爺さんはそんな絶望的ジャングルの生き残りだった
餓死もあっただろう
未開の地の未知の病気もあっただろう
若旦那「オヤジ、焦げてるぞー、早くしろー」
そんなにせかさないでくださいよーーー爺さんを
生きてここにいるだけでも
日本に帰国してお店を持ったことだけでも立派だよ
その方が料理してくれるだけでも
ありがたいことだ
下関で長府観光されたら
ぜひ菊舎によって爺さんの昔話を聞いてください
菊舎は下関出身の歌人の名前からとった
菊舎
〒752-0974 山口県下関市長府土居の内町1−18
半年分の記事、年末年始の記事か消えたので、さらっと記事を書き直しました